続日本100名城 (125) 小机城(こずくえじょう)
小机駅の北口に出ると、西側に小机城跡の丘陵が横に伸びているのが見えます。
横浜線に沿って歩き、住宅地に囲まれた根古谷から本丸広場に向って上る。
「 小机城は、横浜市港北区小机町にあった室町時代の城で、
関東管領上杉氏によって築城されたとされる。
城は、小机駅の西北西約一キロの鶴見川に面した標高四十二メートルの城山と呼ばれる丘陵にあった城で、
現在は小机城址市民の森として整備されている。
永享の乱(1438〜1439)の頃、関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。
文明五年(1473)、長尾景春の父・景信が死去後、
山内上杉家の家宰職を長尾景春が継ぐものと誰でもが思っていたが、
主家の山内上杉顕定は景春を嫌い、景春の叔父・
長尾忠景に家宰職を継がせた。
これを不満とした景春が主家顕定に反乱を起こしたのが、
文明十年(1478) の 「長尾景春の乱」である。
景春に味方をした豊嶋氏が、小机城に立て籠ったが、
敵方の太田道灌は、小机城の北東千五百メートル、
鶴見川を挟んで対峙する亀甲山に陣をとり、
約二か月をかけて落城させたとされる。
小机城戦の時、太田道灌は、近くの集落の松の大木の下に腰掛け、
「 小机はまず手習いの初めにて いろはにほへとちりぢりとなる 」 と歌を詠んで、味方を鼓舞した。
道灌が歌を詠んだ松は以後、「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て、横浜市神奈川区羽沢町に現存するという。
永正十三年(1510)に、三浦道寸の新井城を落した北条氏が、
武蔵に勢力を及ぼすようになると、関東進出の重要な軍事拠点となり、
北条氏綱は城の大改修を行い、家臣の笠原信為を城代にして、
小机衆が組織された。
城主は北条氏秀、氏堯と引き継かれたが、代々笠原氏が城代を務めた。
笠原氏は小机城を中心に、付近の村に僧侶を招き、寺を建立するなど、
城下の整備に力を注いだ。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には無傷のまま落城し、
徳川家康の関東入り後に廃城となりました。
江戸時代になっても、笠原氏の子孫は代々この地の付近に住んでいたという。 」
城跡の丘陵は第三京浜国道により分断しているが、
核心部の西郭(本丸)と東郭(二の丸)は残り、
迫力満点の空掘や土塁、櫓台跡などが残っています。
港北区役所・港北観光協会発行の小机城址ガイドマップによると、
城の麓の根古谷には城主の館や家臣の屋敷があったという。
現在、西郭(本丸)・東郭(二の丸)の位置付けになっているが、
どちらが本丸であったかは定かではないという。
本丸の東側には井櫓や櫓台があったとされ、説明板が建っている。
井櫓跡には遠くの敵を見つけるために造られた見張台や武器を保管する
兵器庫があったといわれています。
井櫓跡の西側にあった櫓台は小机城の高いところにあり、
この場所は東郭と西郭をつなぐとともに、
物見櫓があったのではないかと思われれいます。
城域全体を監視すると共に、南側から東郭と西郭に侵入してきた敵に対して、
側面攻撃を行う、防御施設としての役割も持っていました。
東郭からつなぎ郭、西郭まで大きく囲うように、空掘が築かれていました。
後北条氏の築城術「二重土塁」の遺構が残っていて、
本丸の防御と敵の攻撃に対抗するために造られ、
麓から攻めてくる敵に、上から弓や槍で攻撃できるようにしていました。
国道を挟んだ西部(本丸の西側) の「出丸」と呼ばれた部分は
第三京浜道路の建設の際に破壊された。
その跡には「富士仙元大菩薩」の石碑が建っている。
また、城跡の地下には横浜線の城山トンネルが貫通しています。
所在地:横浜市港北区小机町789
JR横浜線の小机駅の西北西約一キロ、徒歩約15分
小机城のスタンプは、小机駅南口から左手にいったところにある、
城郷小机地区地区センター(045-671-2624 9時〜21時、日曜日は17時まで)の1Fロビーに置かれていた。
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