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枡形虎口の先に三の丸があったが、枡形虎口や三の丸の原形は留めていなかった。
公園の道は三の丸から二の丸に向うが、枡形虎口をすぎたところに「 コの字土橋 」 の説明板がある。
「 堀を掘る際に一部を土のまま残し通路として使う場所を土橋という。 当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、 側面攻撃ができるように工夫されていた。 」
現在の道は広く、その足跡は感じられないが、敵の直進を防ぐための土橋は大変貴重な遺構である。
左手の木の椅子などが置かれた空間が千畳敷跡であるが、説明がないので詳しいことは分らなかった。
千畳敷の一角に 「 馬出(少人数で守れる出入口前の防御設備)の説明板がある。
この北側に馬出があり、その先に二の丸があったようである。
説明板
「 虎口(出入口)の前方に設けられた空間を馬出という。
この場合は方形に作られていることから、角馬出と呼ばれている。
馬出があることによって、大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃が容易である。
二の丸の三ヶ所の虎口(出入口)には馬出が設けられた。 」
千畳敷からくにゃくにゃした道を行くと、丁字路に出た。
このあたりが二の丸だったところの思われるが表示がないので分らない。
トイレの先あたりに中の丸があったようで、「櫓門の推定」 という説明板がある。
「 中の丸の南側は二方向から攻め寄せられた敵が合流できる場所だったので、 木橋の前面を守る防御施設が必要である。 土塁の残り方から考えて、楼門があったのではないかと推定される。 」
二の丸、中の丸の位置関係は下図の通りである。
中の丸は本丸の次に重要な曲輪であった。
「 中の丸の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向って多く設けられている。
このことから北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。
付近には河越(現在は川越)道の渡河地点である「平の渡し」がある。
この重要な地点を抑えるために、瀧山城は構築されたと考えられる。 」
腰曲輪だったと思われるところに出ると多摩川の向うに昭島市街が展望できた。
三の丸の左先の薄暗い林の中の開けたところに霞神社があり、
その近くに「瀧山城跡」の石碑が建っていたので、
このあたりに本丸があったと思われる。
金毘羅社が祀られていて、その由来が書かれていた。
「 江戸時代の天明年間(1781〜)に滝村で造営されたと武蔵風土記に記載されている。
江戸時代から本丸一帯は麓の滝村持ちで年貢の免除地として受け継がれてきた。
滝村は幕府の庇護により、多摩川の漁業や河運で繁栄した。 平成6年にこの神社を復活した。 」
江戸時代には幕府直轄地であったことや最近まで自然のままに放置されていたようで、
保存を働きかけた人の顕彰碑が城跡碑の隣にあった。
所在地:東京都八王子市舟木町3丁目、高月町、加住町1丁目
京王八王子、JR八王子駅北口からバスで滝山城跡下で下車、徒歩約10分
滝山城のスタンプは中の丸(何時でも可)、道の駅滝山、加住市民センター(滝山城駐車場から徒歩5分 月休) にある