続日本100名城 (122) 大多喜城(おおたきじょう)
大多喜城は、徳川家康の家臣で、猛将の本多忠勝により、三層四階の天守を持つ近世城郭へ大改築された城である。
「 大多喜城は、北西部を標高百五十メートルの夷隅山系に囲まれ、
南西部は蛇行する夷隅川を直下に望む丘陵を利用して築かれていた。
一番高い本丸の標高は七十三メートル、二の丸はそれより低いところにあり、城主の御殿や重臣の屋敷があった。
大多喜城は、大永元年(1521)に真里谷城主・武田信興の三男、真里谷信清が当時の地名・小田喜に、
小田喜城として築いたのがはじまりとされる。
信清の後を継いだ真里谷朝信が、天文十三年(1544)、安房国の里見氏の重臣・正木時茂により、城を奪われてしまう。
その後、正木時茂・信茂・憲時の三代に渡り、正木氏が支配して、里見氏の上総国東部支配の拠点となった。
天正十八年(1590)に、北条氏が滅亡すると、里見氏は上総国を没収され、同国は関東に転封された徳川家康に与えられた。
徳川家康は大多喜城を家臣で猛将の本多忠勝に与え、大多喜藩十万石とした。
里見氏は安房一国になったとはいえ、侮りがたい相手なので、本多忠勝をその抑えにしたのである。
本多忠勝は、里見氏の北上を防止するため突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、
ふもとに城下町の建設を行った。
安房の里見氏が滅亡すると、大多喜城の重要性は低くなり、
本多氏三代のあと、元和五年(1619)、藩主・阿部正次の転封により、
大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃したといわれる。
その後、寛文十一年(1671)、阿部正春が一万六千石で入城したが、
幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、
「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という荒廃した状態だったようである。
その後も、譜代大名の交代が続き、元禄十六年(1703)に大河内長沢松平氏が入城し、九代目の松平正質の時まで続いた。
松平正質は鳥羽伏見の戦いで幕府軍の総指揮を執ったが、大敗して大多喜城に戻り、無条件降伏をし、
明治四年大多喜城は廃城になった。 」
いすみ鉄道のおおたき駅から千二百メートル程歩くと、坂の途中に「大多喜城址」の石碑が建っている。
坂を上って行くと二の丸公園の標示があり、中に入ると「空堀」の説明板があるが、どれが空掘かはわからなかった。
「 山城の堀は空掘が多く、平城(の場合)はほとんどが水堀であった。
空掘の底は土や石なので、落ちるとけがをするため、水掘よりかえって攻めにくいといわれている。
大多喜城の空掘は西側の守りに多く作られている。 」
現在、本丸跡にあるのは昭和五十年に天保六年(1835)の図面を基にしたというコンクリート製の天守閣で、
県立中央博物館大多喜城分館になっている。
「 なお、天守閣について、天保十三年の天守焼失後、再建されたという説に対し、
再建されなかったという説やもともとなかったという説もあり、
それに基づき、現在の建造物を「復元」「復興」「模擬」と、意見が分かれる。 」
江戸時代の慶長十四年(1600)に、フィリピン総督のドン・ロドリゴ一行が大暴風に遭い、座礁難破し、
御宿海岸にて地元の漁民に助けられた。
その時の記録「日本見聞録」に「 門の外には深い堀があり、吊り橋が架かっていたことや
鉄製の城門や十五メートルの城壁などがあったことが記されていて、
また、「 城主の御殿は木造だが、金銀で装飾されていた。 」 とある。
大多喜城分館に入り、最上階に上ると周囲の展望はよかった。
博物館の屋根瓦には最初の城主の本多家の紋「立葵」と最後の城主の松平家の紋「三つ扇」の家紋が使われている。
本丸付近には土塁が残り、説明板がある。
「 土塁 土塁は堀とともに城を守る大切な構えである。
空掘と組み合わされて作られ、堀をほり挙げた土で土塁を作る方法がとられた。
勾配は敵が入りにくくするように、城の外側を急勾配に作る。
大多喜城ではこの本丸跡の周囲に土塁が作られた。 」
二の丸は現在大多喜高校の敷地になっている。
本丸跡から下っていくと大多喜高校の敷地の中に大井戸が残っている。
説明板「大井戸」
「 天正十八年(1590)、本多忠勝築城の際つくったもので、底しらずの井戸といわれる。
深さは二十メートルあり、井戸車十六台で汲みだしたという日本一の大井戸である。 」
大多喜高校の玄関には二の丸御殿の薬医門が残っている。
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町
いすみ鉄道大多喜駅から徒歩約15分
大多喜城のスタンプは千葉県立中央博物館大多喜分館2F(9時〜16時30分、受付は16時まで、月休)にある
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