続日本100名城 (120) 菅谷館(すがややかた)






菅谷館は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館の付近を鎌倉街道上道が通う交通の要衝にあった。 
菅谷城(すがやじょう)とも呼ばれ、昭和四十八年(1973)に国の史跡に指定された。 

「 東武東上本線武蔵嵐山駅西口から嵐山駅入口の交叉点を横断し、 国道254号を目指して南に向うと、三の郭跡に建つ埼玉県立嵐山史跡の博物館に出る。  1.3km 徒歩で約二十五分のところである。 」

埼玉県立嵐山史跡の博物館は菅谷館三の郭跡に建てられている。 
また、建物の裏には「建物跡と井戸跡(三ノ郭)」の説明板があり、  その前に、建物の柱跡と井戸跡を示す石柱が建っている。 

説明板「建物跡と井戸跡(三ノ郭)」
「 史跡の博物館の建設に先立つ発掘調査で、三ノ郭では、掘立柱建物跡4棟、井戸跡3か所、 溝跡などが発見されました。  現在、これらの遺構のうち、掘立柱建物跡1棟と井戸跡1か所の位置が示してあります。 」

博物館の右手の道を進むと、「国指定史跡比企城館跡群 菅谷館跡」の説明板があり、 その前にあるのが二ノ郭である。 

説明板「二ノ郭(にのくるわ)」
「 本郭の西側から北側を囲むように造られた平場があり、江戸時代から二ノ郭と呼ばれています。 三ノ郭とは、高さが6mもある土塁と堀で隔てられていました。  目の前の道路は堀を埋めたもので、植栽の部分に土塁があったと考えられています。 」

三ノ郭跡(嵐山史跡の博物館)      井戸跡と掘立柱建物跡      二ノ郭跡
三ノ郭跡(博物館)
井戸跡と掘立柱建物跡
二ノ郭跡



二ノ郭の道の反対に「埼玉県指定史跡 菅谷城跡」の石柱と「国指定史跡比企城館跡群 菅谷館跡」の案内板がある。 

説明板「国指定史跡比企城館跡群 菅谷館跡」
「 菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには、 住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。 
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが、 鎌倉時代の記録「吾妻鏡」に書かれています。  また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享二年(1488)に、 山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、 この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。 
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空掘などからなり、 このような姿になったのは戦国時代(十五世紀後半〜十六世紀前半)のことと考えられます。 
昭和48年(1973)に、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として、 国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館と名称が変更されました。 」

説明板の手前を右に入ったところにある土塁上に階段で登ると、畠山重忠の銅像が建っている。 
直垂姿で鎌倉を望む姿は勇壮な騎馬姿が多い中、珍しく印象的である。 
階段を降り、案内板の右手の道を進むと、左側は草が茂っているので、 深さはわからないが、堀と土塁があり、本郭を守っている。 

菅谷城跡石柱と説明板      畠山重忠の銅像      本郭土塁と堀
菅谷城跡石柱と説明板
畠山重忠の銅像
本郭土塁と堀



この道を進むと道の左に少し小高くしたところに木が生えていて、 傍らに「出枡形土塁(でますがたどるい)」の説明板が立っている。 

「 目の前にある本郭を守る高い土塁には、凸字状に突き出た箇所があり、 「出枡形」と呼んでいます。 出枡形土塁は、敵が侵入した際、横から矢を射かけるなど、 効果的に防げるようにしたものです。 」

道の右手は一面草が生い茂っているが、ここは二ノ郭跡である。 
本郭の土塁の高さは九メートル、二の郭の西側の土塁の高さはは十一メートルある。 
道の右側に東屋があり、休憩している人がいた。 
東屋を越え、南郭に向って直進すると、階段があり、下りていくと、左右に草原が広がる。 
ここが南郭跡である。 

「 菅谷館は、本郭、二ノ郭、北に三ノ郭、西に西ノ郭があり、 面積は十一万平方メートル、現在、館跡の三方の堀は、池や水田などになっているが、 東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖、 その上に南郭や本郭がある。  」

出枡形土塁      二ノ郭跡      南郭に向う
出枡形土塁
二ノ郭跡
南郭に向う



道脇に南郭の道標と「南郭(みなみくるわ)」の説明板がある。 

「 この郭は、本郭の南側に位置し、他の郭より一段低くなっています。  今のところ、どのように利用されたかは、よくわかっていません。 」

南郭の道標には「←左都幾川、埼玉県立嵐山史跡の博物館→」とある。 
都幾川に面した南側は断崖である。 
右側の土塁の外は、この城の外周を守る都幾川である。 
林の中を進むと、広い空地に出た。 
空地の中央に三叉路があり、左折すると左側に「本郭」の説明板が立っている。

説明板「本郭(ほんくるわ)」
「 堀や土塁、郭が何重にも取り巻く城跡の中心部分の平場は、 江戸時代以降、本郭と呼ばれています。  城の中心的な建物があったと考えられます。 」 

現存する菅谷館は戦国時代に整備拡張されたものである。 
中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、 本郭を中心に二の郭、三の郭、西の郭、南郭の五つの郭がクモの巣の様(扇形)に並ぶ輪郭式の縄張りをしていた。 
畠山重忠の館もおそらく、この郭の中につくられたのでしょう。 

「 畠山重忠が長享の乱で亡くなった後の菅谷城は、 山内上杉顕定の命を受けた太田資康(太田道灌の子)が、 扇谷上杉方の拠点である河越城に対する抑えとして、 また、本拠である鉢形城を守るための城として、この城を復活させた。 
以後、十六世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われた。 
戦国時代に入ると、天文十五年(1546)の河越夜戦以降、 この地域に進出した小田原北条氏によって戦国末期まで使われ、 小泉掃部助が城代となって守備している。 」

南郭跡      南郭の道標      本郭跡
南郭跡
南郭の道標
本郭跡



本郭から北に向うと、両側の土塁の間に道が通じていることが分かる。 
ここをぬけると、両側は深い堀で、 そこを過ぎると菅原城址の石碑の脇の二ノ郭跡まで戻ってきた。 

「 其々の郭は土塁と空掘、水堀で防備され、 館の外周は自然の浸食谷によって何重にも守られていた。  また、虎口(郭の出入口)付近は、土塁と曲折によってくいちがいを設けるなどの防御の工夫がされていた。 」

博物館脇の道を北上すると、左側は林が続き、左から奥に続く小道がいくつかある。 
その一つに入っていく。
このあたりは三ノ郭跡である。

本郭虎口跡      二ノ郭跡に戻った      三ノ郭跡
本郭虎口跡
二ノ郭跡に戻った
三ノ郭跡



道は右折して北に向い、三叉路に出る。 正面は三ノ郭の北側を防御する土塁がめぐられている。 
三叉路を左折し進むと、「三ノ郭を防御する土塁(しとみどるい)」の説明板があり、 その先のこんもりとした土地が蔀土塁なのだろう。 

説明板「蔀土塁(しとみどるい)」
「 堀に面した虎口の内側にある小さな土塁は、西ノ郭から三ノ郭内の様子を見通せないように するものです。 平安時代の邸宅で使用された風雪や日光を遮る道具の蔀の名前をとって、 視線を遮る土塁を蔀土塁と呼んでいます。 」 

その先は急勾配になっていて、その先に橋が架かっているが、 ここは三ノ郭の虎口跡である。 
その手前の左側に「正てん(土へんに占という字)門と木橋」の説明板がある。

「 ここは、三ノ郭の出入口で、正てん(土へんに占という字)門と呼ばれ、 幅約5間(9メートル)あります。  発掘調査の結果、西ノ郭より約1メートル高く盛土していたことがわかりました。  この盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、 敵軍の侵入を困難になるよう工夫したものと思われます。  調査によって堀の中段から、木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されましたが、 現在ある橋はそれをもとに推定復元したものです。  しかし、実際の橋がどのようなものだったかは、わかっておりません。 」

三ノ郭を防御する土塁      説明板と蔀土塁      三ノ郭虎口(説明板)
(奥)三ノ郭を防御する土塁
説明板と蔀土塁
三ノ郭虎口(説明板)



三の郭から西の郭へ通じる復元された木橋はたしかに傾斜が確認できた。 
その先の空地は西ノ郭跡で、北側は土塁がめぐっている。 
両側は林で、その中に空地が広がるという地形である。 
そのまますすむと、谷川に出た。 かってはここに虎口があったようである。 
小さな橋を渡ると、車道のある駐車場に出た。 
これで菅谷館の見学は終了である。 

復元された木橋      西ノ郭跡      谷川
復元された木橋
西ノ郭跡
谷川(虎口跡)



所在地:埼玉県嵐山町大字菅谷  
関越自動車道東松山ICからも関越自動車道嵐山小川ICからも車で約10分 
菅谷館のスタンプは埼玉県立嵐山史跡の博物館(0493−62−5896 9時〜16時30分、月休)の展示室受付にある 



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かうんたぁ。