続日本100名城 (117) 岩櫃城(いわびつじょう)





岩櫃城は吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にある山城である。 
「本丸跡」の標柱がある岩櫃城本丸跡に、「岩櫃城由来記」の石碑が立っている。

「 吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、 年代は定かではありませんが、 鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮(すけふさ)により築城されたといわれています。 城郭の規模は一・四キロ平方メートルと上州最大を誇り、 後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。  その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)、武田信玄は上州侵略のため、 重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。  ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ、堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。  こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。  天正二年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、 翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。  その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。  天正十八年(1590)、北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田城の支城として、 重臣出浦(いでうら)対馬守(つしまのかみ)を城代としました。  そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した慶長二十年(1615)の一国一城令により、 四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。 」

岩櫃城は標高八百二メートルの岩櫃山全体を機能的に活かした巨大な山城で、 西側、南側は巨岩による絶壁と吾妻川により守られており、 おもに上杉や北条を意識して東側の防御に重きをおいていて、城の中心地は岩櫃山の裏側にある。 
山腹に広がる岩櫃城は縦横多様に伸びる無数の深い堀とそれを見下ろす数々の曲輪、 自然の地形と複数の支城が連携構築された城だった。 
本丸への近道は岩櫃山の西側からの登り口(平沢口)登山道であるが、  かつてはここににたどり着くのさえ至難だったことだろう。 
登山道入口まで車で登れ、トイレもある。 本丸までは尾根通りと沢通りの二つのルートがあるが、 行きは尾根ルート、帰りは沢通りが良いだろう。 本丸まで歩いて20分程度。 
歩き始めると十分で、開けた扇状地にある中城跡に到着。 
右折した先の全長百メートル以上の一直線の竪堀を登り、  急で短い木製階段を登れば二の丸に到着する。 
対岸が本丸だが、その前に深い谷(空堀)が待ち構える。  頭上(本丸)からの射撃や投石に気をつけ、最後の堀を乗り越え、階段を進めば、本丸である。 
そのまま進めば岩櫃山頂だが、本丸を抜けたところに複数の枡形虎口がある。 
本丸には四阿があり、登山者ノートが備え付けられている。 
帰りは本丸と谷の高低差は七十メートルといわれる沢通りを下り、その高低差を確認するといいだろう。 

本丸跡
     中城跡      二の丸跡
本丸跡
中城跡
二の丸跡



なお、岩櫃城の詳細は、 訪問記「岩櫃城」にあるので、ご覧ください。

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町  
JR群馬原町駅から徒歩で約1時間(平沢登山口からは徒歩約20分で本丸跡) 
岩櫃城のスタンプは平沢登山口観光案内所(4月〜11月)、東吾妻観光案内所(12月〜3月)にて 
岩櫃山平沢登山口観光案内所(群馬県吾妻郡東吾妻町原町1965-2  TEL 0279-26-7088  ) 



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かうんたぁ。