続日本100名城 (116) 沼田城(ぬまたじょう)






沼田城は群馬県沼田市倉内にあり、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城で、 二つの川側は約七十メートルの崖となっていて、典型的な崖城でもある。 

「 沼田城は天文元年(1532)に沼田氏十二代、顕泰が築いたとされるが、  沼田は北関東の要衝にあり、軍事上の重要拠点として、北の上杉氏、南の北条氏、西の武田氏による争奪戦が繰り広げられた。 
永禄十二年(1569)に上杉謙信と北条氏康が和睦した時には、 謙信の養子となった氏康の子、氏秀(のちの景虎)が沼田城で対面している。 
謙信の死後の天正六年(1578)、相続をめぐる景虎と景勝の御館の乱が起きると、隙に乗じて、 北条氏邦が沼田城を支配下に置いた。 
二年後の天正八年(1580)には武田氏の武将、真田昌幸が入城した。  武田氏が滅亡すると、一時、滝川一益の居城になったが、本能寺の変の後は真田昌幸の手に戻った。 
その後、昌幸は北条氏邦の執拗な攻撃を六年間に渡って撃退した。 
天正十七年(1589)、領地の所有をめぐってこじれていた沼田領は豊臣秀吉の裁定により、 真田氏と北条氏に分割され、沼田城は北条氏の手に移った。 
沼田城に入った城代、猪股邦憲は裁定を無視して昌幸の名胡桃城を略奪。  これが原因となり、秀吉の小田原攻めが開始された。 
北条氏が滅亡した天正十八年(1590)、真田昌幸の長男、信幸が沼田領の領主となり、慶長二年(1597)には五層の天守や三層の櫓が建てられた。 
関ヶ原の戦い後、信幸は父の所領の上田領を合わせ九万五千石の大名となり、名を信之に改める。 
元和二年(1922)、信之は上田城に移り、沼田城主には真田信吉がなる。  しかし、天和元年(1681)に真田氏五代の信澄(二代藩主、信吉の子)が、 幕府から命じられた両国橋の用材伐り出しの遅延と農民騒動を咎められ、改易となり、 領地は天領になり、翌年には沼田城は破却され、堀も埋められた。 
1703年 - 本多正永が入封し、沼田藩二万石として再興されるが、三の丸を改修して館を建てる程度の規模になった。  以降、館は黒田氏、土岐氏と、沼田藩の藩庁として存続するが、城の本格的な復興はなされないまま、 明治の廃藩置県で館も取り壊された。 」

現在、本丸と二の丸跡が沼田公園となって残るが、遺構としては真田氏時代の西櫓台の石垣や石段、 本丸堀の石垣が残るだけである。 
寛永十一年(1634)に醸造された鐘が架かる鐘楼が復元されて、本丸跡に建っている。 
真田信之と小松姫像があり、 大河ドラマ「真田丸」に登場した真田信之と妻小松姫の逸話が紹介されていた。 

西櫓台跡
     本丸堀跡      真田信之と小松姫像
西櫓台跡
本丸堀跡
真田信之と小松姫像



沼田城の詳細は、 古城めぐり「沼田城」にあるので、ご覧ください。

所在地:群馬県沼田市西倉内町594    
JR上越線沼田駅の北東千二百メートルにあり、徒歩二十分で沼田公園の入口に到着 
沼田城のスタンプは沼田城駐車場脇の沼田市観光案内所(9時〜17時、冬期は16時まで) にて  



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かうんたぁ。