続日本100名城 (115) 名胡桃城(なぐるみじょう)
名胡桃城は群馬県利根郡みなかみ町下津にあった城で、
利根川と赤谷川の合流地点の南西、利根川の右岸断崖部の上にあり、
利根川から湯舟沢が南に入りこむ舌状台地を利用して築かれていた。
名胡桃城は真田昌幸の沼田城の支城で、
天正十八年(1590)の秀吉による小田原征伐の誘因となったことで有名である。
「 伝承によると、室町時代の明応元年(1492)に、沼田城の支城として沼田氏によって築かれた名胡桃館が最初とされる。 、
真田昌幸が、天正七年(1579)、その隣接地に城を築き、鈴木重則(主水)を城代にした。
謙信が没した翌天正七年、武田勝頼の命により、真田昌幸が吾妻の岩櫃城、利根に入り、
名胡桃城を始め、山城や砦を攻略し、天正八年、沼田城を調略した。
その後、真田氏と北条氏の間で攻防が続くが、天正十七年(1589)、
豊臣秀吉は両者に対し、全体の三分の二、沼田城を中心とする東と赤谷川の左岸を北条領、
西の名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領とする裁定を下した。
北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は調略により、名胡桃城を不法に攻略したため、
城将の真田昌幸家臣 鈴木重則(主水)は騙されたことを恥じて、割腹自殺した。
この名胡桃事件に激怒した秀吉は、大名間の私闘を禁じた惣無事令に反したとして、
天正十七年(1589)十一月、北条氏に対して宣戦布告をし、
全国の大名に命じて小田原攻めを開始し、天正十八年小田原の役が勃発した。
小田原征伐の結果、北条氏が滅亡すると全沼田領は真田氏の安堵となり、役割を終えた名胡桃城は廃城となった。 」
名胡桃城は丸馬出から三郭、二郭、本郭、ささ郭と主要な郭が直に並ぶ連郭式の山城で、
両側が切り立った天然の要害である。
国道から城跡に入った所は丸馬出跡で、当時は三日月状の空掘が巡っていた。
堀跡を土橋で越えて虎口から三郭跡に入ると、正面に三峰山が大きく見える。
次の堀を越えると二郭跡で、右斜面には腰郭がある。
本郭堀を木橋で渡ると本郭跡で、そこには徳富蘇峰の筆による城址碑があり、
北側の樹木の間からは谷川連峰が望める。
本郭先の一段低くなっているところは、ささ郭跡で、土塁が残っている。
もう一段下にあるのはと物見郭跡である。
「 教育委員会による発掘調査で、
土塁址、三日月堀、虎口、通路、門礎石址、掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されたといい、
案内碑には教育委員会による発掘調査でわかったことが、推定図と発掘現場の写真で、紹介されているので、
当時の様子を想像できるのはよい。 」
廃城となった後、手を加えられなかったため、築城当時の遺構が良好に残されたようである。
名胡桃城の詳細は、
古城めぐり「名胡桃城」にあるので、ご覧ください。
所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津
名胡桃城へはJR上越線後閑駅から約2.6キロ、徒歩で約50分の距離である
後閑駅から南に約一キロある利根川に架かる月夜野大橋を渡り、
月夜野バイパスを一キロ余進むと湯舟沢に架かる湯舟橋がある。
橋を渡ると名胡桃城址前交叉点があり、その右手が名胡桃城跡である。
名胡桃城のスタンプは般若郭跡にある名胡桃城址案内所(9時〜16時)にて
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