続日本100名城 (114) 唐沢山城(からさわやまじょう)
唐沢山城は栃木県佐野市富士町、栃本町にあった関東一の山城と称される古城で、別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。
「 唐沢山城は、佐野市街地の北方約五キロメートルの標高二百四十七メートルの唐沢山山頂を本丸として、
一帯に曲輪が配された連郭式山城である。
平安時代に藤原秀郷が、従五位下、下野国押領使を叙任、関東に下向。
天慶三年(940)、平将門が起した天慶の乱を鎮圧し、
その功績により、従四位、武蔵下野国鎮守府将軍を拝領し、
天慶五年(942)に唐沢山城を築城したのが始まりである。
その後、七百年を経た室町時代、秀郷の末裔とし、佐野氏を名乗った佐野盛綱が、延徳三年(1491)、城の修築を行った。
この地は関東に侵攻を企てる上杉氏と北条氏との戦いの最前線で、
北条氏の配下になると上杉謙信にたびたび攻められ、永禄七年(1564)の戦いで降伏し、城は謙信の管理下に置かれた。
謙信の死後の永禄十年(1567)からは、北条氏の攻撃を受けたので、
佐野氏は北条氏康の六男、氏忠を養子に迎え、北条氏の支配下に組み込まれた。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐で、佐野昌綱の弟、天徳寺了伯が豊臣方に付き、
城内の北条勢を一掃して、城主となり、名を佐野房綱と改めて、城を大改修した。
現在見られる遺構はそのときのものである。
文禄二年(1593)、豊臣氏の家臣、富田一白の二男、信種を養子にして跡を継がせ、佐野信吉と名乗らせた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、信吉は徳川家康方に付き、三万五千石の旧領を安堵され、佐野藩が成立したが、
慶長七年(1602)、山城廃止令で、幕府から佐野春日岡に城の移転が命じされ、
慶長十二年(1607)、佐野城(現在の佐野市城山公園)に移り、唐沢山城は廃城になった。 」
東武佐野線田沼駅を出て、佐野線の踏切を渡り、東南の一本道を進む。
秋山川に架かる唐沢橋を渡り、九十九折れの車道を登っていくと、登りつめた駐車場にレストハウスがあるが、
ここは蔵屋敷跡である。
その先にあるのはくい違い虎口である。
北の避来矢山と南の天狗岩の間に、土塁をくい違いにして、直線的に進入できないようにした虎口があった。
虎口(枡形)を入ると物見櫓の跡をいわれる天狗岩があり、その先には山城の井戸としては日本一の直径九メートル、
深さ九メートルの大炊井がある。
その先にある神橋は神社が創建された時架けられたもので、
この下には大きな堀切の四つ目堀があり、かっては曳橋が架かっていて、いざという時に橋を引き払い、
通行を遮断するようになっていた。
四つ目堀に架けられた神橋を渡り、桜の馬場を通っていくと、
唐沢山神社の社務所(9時〜17時)がある。 かって蔵屋敷、武者詰とも云われた南城跡である。
続日本100名城のスタンプはここに置かれている。
城は自然の地形を巧みに生かして曲輪や堀切を配置している。
石段の上が本丸跡である。
「 現在、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷を祀る唐沢山神社が建っているが、
かっては奥座敷があったとされる。
大手となる出入口は西側で、搦手口は北東になる。 」
本丸南西の高石垣は約40メートル延び、南局の西側に続く。
「 高さ八メートルを越える石垣は、小田原合戦以降、佐野氏が豊臣秀吉と深い関係にあったため、
西日本を中心とする技術の導入により、築かれたものである。
関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。 」
本丸の西側下にあるのは土塁に囲まれた二の丸跡で、奥御殿直番の詰所があったといわれ、
追手出丸と記述する古地図もある。
現在の本丸への道は直線的だが、かっては鉤の手になっていた。
二の丸の出入口(虎口)の石垣は残っていて、そこを出ると北側に引局(武者詰、腰曲輪)があり、
左に下ると三の丸跡である。
「 現在は帯曲輪と二の丸の間を三の丸としている。
かっては賓客の応接間があったとされる。
周囲は高く急な切岸が巡るが、部分的な石垣等が複数箇所で認められる。 」
帯曲輪は古地図や古記録では三の丸を含めて帯曲輪としていた。 現在は細長い平坦地を指す。
高く急な切岸と土塁を有しているが、
四つ目掘を隔てた本丸側における最前線の防御拠点だったと考えられている。
所在地:栃木県佐野市富士町、栃本町
東武佐野線田沼駅から車(タクシー)で20分 佐野駅から車(タクシー)で30分
唐沢山城のスタンプは唐沢山神社の社務所(9時〜17時)に置かれている
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