続日本100名城 土浦城(つちうらじょう)






土浦城は室町時代の永享年間(1429〜1441)に在地領主の小田氏に若泉氏が築城したという。  近世城郭として体栽を整えたたのは関ヶ原の戦いの後に藤井松平家の松平信一が三万五千石で入封からで、 信一と子の信吉が現在の城のおよその形を作ったと考えられている。 

「  土浦城は霞ヶ浦近くの低地に位置し、霞ヶ浦がある東方を除き、内掘、外掘の他、 三重の堀をめぐらせていた。 土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、 水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから、「亀城」と呼ばれた。 
松平信吉が上野国高崎に移封になると、 城主は西尾氏、朽木氏、土屋氏、大河内松平氏と代わり、 貞享四年(1687)、土屋政直が再び入封し、 以後土屋氏が十一代、約二百年間城主になり、明治維新に至った。 
その間、城の増改築は続いたようである。 
なお、土屋政直は老中を三十年在職し、五代将軍綱吉から四代の将軍に仕えた。 」


   

土浦城跡(亀城公園)
土浦城跡(亀城公園)図



本丸には本丸御殿、西櫓、東櫓、櫓門、霞門、鐘楼等が建てられたが、 天守は建てられなかった。 

「 本丸は東西に長い長方形の形をし、 周囲に水をたたえた堀をめぐらせ、 堀に接する内側には土塁をめぐらせ、、土塁の上に塀を建てていた。 
南に二階建ての楼門(太鼓櫓門)、北東に霞門を設け、霞門の堀には霞橋が架けられていた。 
東西には櫓が築かれた。  本丸御殿は明治に郡役所として使用されたが、火災により消失した。 」

本丸跡には、本丸正門の楼門(太鼓門)と霞門(搦手門)が現存し、 茨城県で唯一、江戸時代からの現存建物遺構の存在する城となっている。 
また、霞門を入るとある櫓は東櫓で、これは復元されたものである。 

   

本丸水堀
     楼門(太鼓門)      霞門と東櫓
本丸水堀 楼門(太鼓門) 霞門(搦手門)と東櫓



本丸には西櫓も復元されている。 
二の丸の東南側には米蔵や厩、南西側には仕切門や馬場、北西側には兵庫門や武具蔵、 北東側の亀井郭には長屋や楯蔵、稲荷などがあったが、 明治維新後にこれらの建物は取壊しや払下げにより姿を消した。 
二ノ門があったところには武家屋敷と町屋の間を仕切る旧前川口門が移築されている。 
聖徳太子堂の外側に水戸地方裁判所土浦支部があるが、外丸跡である。

「 外丸は巽郭の一部で、十七世紀後半に造られた。  外丸御殿が置かれ、明治維新後は新治郡裁判所として使われたが、  明治三十八年(1905)に放火によって外丸御殿は焼失してしまった。 」

本丸の北西側に三の丸があり、乾郭とも呼ばれていた。  炎硝蔵が設置された時期もあるが、空間地として利用が主だった。 
明治維新後、城は壊されたが、 明治三十二年(1899)に、土浦城の東南側と南西側は亀城公園となり、 北西側には昭和六十三年(1988)に、土浦市立博物館が建てられた。  また、外丸前の道は外丸通りと命名がされている。 

   

本丸西にある西櫓
     二の丸跡      旧前川口門
本丸西にある西櫓 二の丸跡 旧前川口門



所在地:茨城県土浦市中央1丁目13  
土浦城はJR土浦駅の北西千二百メートルに位置し、 駅西口から国道125号を北西に行くと本丸、二の丸跡を利用した亀城公園に出る。 徒歩25分   
土浦城のスタンプは土浦博物館の入口にある
  土浦市中央一丁目15−18 029−824−2928
  9時〜16時30分、月休、年末年始休み  
土浦博物館の休館(月曜日)はまちかど蔵「大徳」(9時〜18時)にて  



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かうんたぁ。