続日本100名城 (112) 笠間城(かさまじょう)






笠間城は、笠間市北部の標高百八十二メートルの佐白山頂に築かれた平山城である。

「 鎌倉時代、この地域で正福寺と徳蔵寺が勢力争いをしていて、 僧兵が争っていた。 正福寺からの援軍要請を受けた、 下野国守護・塩谷頼綱は、塩谷朝業の子、時朝を派遣し、徳蔵寺勢を破った。  時朝がそのまま笠間に居続けたので、正福寺は不審を持ち、両者の抗争が起き、正福寺を制圧し、笠間を占拠。  承久元年(1219)には、笠間氏を名乗り、 標高百八十二メートルの佐白山に築城を開始し、嘉禎元年(1235)に笠間城を完成させた。 
その後、笠間氏の統治が続いた。 天正十八年(1590)の秀吉による小田原攻めの際、 十七代綱家は後北条氏に味方し、主家、宇都宮国綱に攻められ、滅亡。 
慶長三年(1598)に新たな城主となった蒲生秀行の家臣、蒲生郷成が石造りの近代城郭へ改修した。 
慶長六年(1601)、松平康重が入城、 その後、永井氏、浅野氏、井上氏、本庄氏と藩主が次々に替わったが、 永享四年(1747)、牧野貞通が八万石で封じられ、以後牧野氏が明治の廃藩まで笠間の地を治めた。 
明治三年(1871)に廃城になり、明治六年(1873)に建物は取り壊された。 」

JR笠間駅から北へ、笠間稲荷神社を目指し、 門前通りを抜けると、かさま歴史交流館井筒屋がある。 
ここに続日本100名城のスタンプが置かれていて、二階に笠間城の解説と模型がある。 
井筒屋の左側の三叉路を入ると、「史蹟 大石邸跡」の石標があり、 中に大石内蔵助の銅像と奥に「大石邸址」の石碑が立っている。  ここは大石内蔵助の祖父で、笠間藩浅野家の家老であった大石良欽の邸宅跡である。 
隣に日動美術館、右先に佐白観音を祀る正福寺がある。 

   

かさま歴史交流館井筒屋
     大石邸跡      正福寺
かさま歴史交流館井筒屋 大石邸跡 正福寺



穏やかな坂道が続き、道路にはみ出した大黒石のあたりから傾斜がきつくなる。 

説明板「大黒石」
「 鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。 佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、 山頂にあった大黒石をころがした。  徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、 佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた。  大黒石は、そのときここまでころげ落ちて止まったといわれています。  この大黒石の中ほどに小穴があり、大黒のへそといわれ、 このへそに小石を三度つづけて投げ、そのうち一つでも入れば、 幸せがあると伝えられています。 
  環境庁 茨城県観光物産課    」

その先に色々な道標があり、また、「笠間百坊跡」の標石が立っている。
左手奥が笠間氏に滅ぼされた正福寺があった場所である。
この三叉路を右折すると駐車場があるが、ここは的場丸という曲輪跡で、 「史蹟 千人溜り跡」の石柱が建っている。 
出陣する武士が隊列を整える大手門前の曲輪だったところで、通称が千人溜である。 

   

大黒石
     笠間百坊跡      千人溜り跡
大黒石 笠間百坊跡 千人溜り跡



かなり広い駐車場で、奥の山麓に「笠間市指定史跡 笠間城跡」の説明板がある。 

「 笠間城は、笠間氏の初代、時朝の築城伝説を持ち、 中世は笠間氏の居城として使用されました。  天正18年(1598)に笠間氏が没落すると、宇都宮氏家臣の未生氏が、 慶長3年(1598)には、蒲生郷成が城主になりました。  この蒲生郷成が笠間城を近世城郭として変貌させたと考えられます。  近世は笠間藩の居城として機能し、 政務の利便性のために下屋敷が建設された後も、山城部分は維持されました。  茨城県では唯一本格的な石垣が築かれており、 当時の姿を見ることができます。 
(以下省略)               」

広場の左手の道に入ると、正面に野面積みの石垣があり、その手前に浅い空掘がある。
土橋を渡ると、左側に「史跡笠間城大手門跡」の標柱が立っている。 
右側の石垣は古いと思われる。 
その石垣裏から古びた石段を上って行くと車道がUターンする広場に出る。 

   

説明板
     大手門跡      古い石垣
笠間城跡説明板 大手門跡 古い石垣



 

本丸に通じる車道はつづら折れで、石段を何度も横断しているが・・・ 
石段を上っていくと、右手は二の丸跡で、本丸玄関門跡に通じる。

「  笠間城は佐白山山頂の天守曲輪を中心に、東から北に掛けての山腹に郭を重ねた城で、 天守曲輪および大手道には関東の城郭には珍しく、石垣が多用された。  主郭部は天守曲輪から本丸、二の丸、大手門に掛けての曲輪群により構成されるが、 北方の谷に面した尾根上にも横堀を伴う複数の曲輪が存在した。  また、本丸南方にも横堀が存在し、東端は竪堀となって山麓に向けて下る形になっていた。 」

本丸の広さは三百平方メートルで、 本丸広場の西寄りには笠間時朝の顕彰碑と歌碑があり、 その南部分は西に飛び出していて、ここにかっては宍ヶ崎櫓が建っていた。 
本丸広場の南側に高さ三メートルの台地があり、 台地の南東に「史跡 笠間城八幡台櫓跡」の標柱が立っていて、 北西には東屋がある。 
ここに、「八幡台櫓」と呼ばれる物見櫓が建っていたが、 明治維新後、城が取り壊される時、市内の日蓮宗真浄寺に移築された。 
現在、七面堂というお堂になっているが、 「笠間城櫓」として茨城県の文化財に指定されている。 

   

本丸広場
     八幡台      八幡台櫓
本丸広場 八幡台 八幡台櫓(七面堂)



 

本丸を東に進むと、南の台地と裏門虎口の間に「 「史跡 笠間城本丸跡」の標柱があり、その奥に 「史跡 笠間城跡」の石碑が見える。 
ここは本丸の東部で、 石碑の脇を通って、天守台跡に向う。 
空掘を渡ると、平凡な本丸広場とは違い、山城の様相になり、 石垣の間の急な石段を上る。 
石段は天守曲輪の石段で、左側に「笠間城天守跡」の石標がある。

   

「笠間城本丸跡」の標柱
     本丸東部      「笠間城天守跡」の標柱
「笠間城本丸跡」の標柱 本丸東部 「笠間城天守跡」の標柱



 

この石段を上っていく。
その先の天守曲輪跡石段は極めて急であるが、両側の石垣は残っている。 
ロープが張られた石段をよいしょよいしょと上っていくと、かっての天守台がある。

「 天守曲輪は、慶長三年(1598)の蒲生秀行の宇都宮城移封に伴い、 蒲生郷成が笠間城代になり、石造りの近代城郭へ改修された際、造られたとされる。 
その際に城主が政務を執る居館(下屋敷)は佐白山の北東山麓に置かれた。 」

天守台には二重の天守が建てられたとあるが、今は佐志能神社の社殿が建っている。 
山麓に置かれた下屋敷跡は、日動美術館の奥にあり、 佐白山麓公園として整備され公開されている。 
広場の中央部に「史跡 笠間城主下屋敷跡」の標柱があり、 その奥に「時鐘」という鐘楼が建っている。 

   

「天守曲輪跡石段
     天守台(佐志能神社)      笠間城主下屋敷跡
天守曲輪跡石段 天守台(佐志能神社) 笠間城主下屋敷跡



 

所在地:茨城県笠間市笠間笠間3616他   
JR笠間駅から徒歩1時間   
          
笠間城のスタンプはかさま歴史交流館井筒屋にて  
住所:笠間市笠間987 TEL: 0296−71−8118  9時〜22時  月休


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かうんたぁ。