続日本100名城 (111) 向羽黒山城(むかいはぐろやましろ)
向羽黒山城は戦国時代、会津を治めた蘆名盛氏が築城した東北最大級の山城である。
伊達政宗、蒲生氏郷がそれぞれ重要な要衝として改修を加えた。
「 相模三浦一族の蘆名氏は、鎌倉幕府を樹立した源頼朝の御家人として、
多大な軍功により、会津の穀倉地帯である、 北部を中心に領地を得たといわれる。
蘆名氏の全盛期を築いたのは十六代の盛氏で、
新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを従え、
百万石の会津太守と謳われ、葦名家中興の祖と呼ばれるようになり、
八年の歳月をかけて永禄十一年に完成したのが向羽黒山城である。
蘆名氏が天正十七年(1589)、磐梯山麓の摺上原の戦いで、伊達政宗に敗れ、滅亡した後、
会津領主となった伊達政宗や蒲生氏郷も改修した。
上杉景勝は、慶長三年から四年にかけて、最後の砦(籠城戦)用に韓国の熊川倭城を参考に改修した。
豊臣秀吉の死後、徳川家康が政権をつかむと、秀吉の重臣である上杉景勝に圧力をかけてきた。
有名な「直江状」は会津で書かれたものである。
しかし、慶長六年の関ヶ原の戦いで西軍が負けた結果、上杉景勝は米沢に転封になり、
向羽黒山城は廃城となった。 」
向羽黒山城は、福島県大沼郡会津美里町にある白鳳三山の最高峰、岩崎山に築かれた山城である。
城の規模は、東西一・四4キロメートルで南北一・五キロメートル、面積は五十ヘクタールで、
東を流れる阿賀川や東部分の崖などの天然の要害に加え、
土塁や堀などの防御施設がいたるところに造営された山城である。
岩崎山山頂の本丸(一曲輪)を中心に、現在公園になっている二の丸(ニ曲輪)跡、三の丸跡、
伝盛氏屋敷跡などの曲輪を はじめ、竪堀や空堀、虎口、石塁の跡などの遺跡が残っている。
上杉謙信の居城であった春日山城をも凌ぐといわれる東北随一の山城の遺構は、
平成十三年(2001)に国の史跡に指定
され、 平成二十九年(2017)に続日本100名城(111番)に選定された。
説明板「向羽黒山城一曲輪」
「 一曲輪は、標高408メートルの山頂にあって、会津を一望でき、
戦国大名蘆名氏の本拠地としてふさわしい立地である。
曲輪の東南は大川畔まで169メートルの絶壁で、他は土塁や空掘で厳重に固められ、
「詰城」として周到な用意がほどこされている。
この山城の象徴的な建築物もあったと考えられ、曲輪東北部には櫓台状遺構が現存する。
東側鞍部上の一の東曲輪には石庭の遺跡と考えられるところもあり、
この石庭は磐梯山などを借景とする眺望がすばらしい。
会津美里町教育委員会 」
二の丸(二曲輪)は現在、公園になっているが、城内で最も広い削平地である。
二曲輪奥にある展望台からは、城の東側直下を流れる阿賀川、
さらには会津若松城を含む会津盆地一円を望むことができる。
説明板「向羽黒山城二曲輪跡(二の丸)」
「 向羽黒山城は、東北の雄、蘆名盛氏が永禄四年(1561)に着工し、同十一年に完成した
軍事的にかたよった縄張りを持つ山城である。
この二の曲輪は実質的には近世の本丸(城主の居所)にあたるところと考えられ、
一の曲輪の嶮峻さに比べ、曲輪取りも広く、展望性に富んでいて、
生活に必要な飲料水を確保している水の手曲輪にも近くにあり、生活機能が重視されている。
この平場上から礎石が発見されているので、それを用いた建造物などが存在したとも考えられる。
大川の清流を眼下に、眺望絶佳のこの曲輪は四百余年前の盛氏の大きな夢を今に伝えている。
会津美里町教育委員会 」
「向羽黒山城三の丸跡」の標柱が、斜めに下る傾斜地の茂みの中に建っていた。
説明板「向羽黒山城三の丸跡」
「 三の丸は、永禄四年(1561)、おもに馬の訓練場として造られたところで、西北見張りも良く、
望楼や指揮陣屋など、並接されていた。
盛氏(もりうじ)の兵力養成の広場でもあって、着々完備に意を尽くしたが、
天正三年(1575)七月、嫡男盛興の早逝に遭い、再び黒川城(鶴ヶ城)に移ることになり、
その計画も中断せざる得なかった。
この地にただずめば、苔むした石垣が幽かに散見され、当時の俊馬のいななきが聞こえるようである。
会津美里町役場 会津美里町観光協会 」
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向羽黒山城跡 一曲輪 | | 向羽黒山城跡 二曲輪 | | 向羽黒山城 三の丸跡 |
所在地:福島県大沼郡会津美里町船場
JR只見線会津本郷駅から徒歩で20分
向羽黒山城のスタンプは向羽黒山城跡整備資料館玄関にあり、終日利用できる。
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