続日本100名城 (110) 三春城(みはるじょう)





三春城は永正元年(1504)に、戦国大名の田村義顕によって築かれたと伝えられる。

「 三春の春は桜、梅、桃の花が同時に咲くから、三春という名がついたと聞いた。 
三春城は、永正元年(1504)に、坂上田村麻呂の子孫を自称していた田村義顕によって築かれたと伝えられる。 当初は、痩せ尾根に沿って、棚田のような狭い平場が並んでいたが、 十六世紀初め頃に火災があり、その後行われた大規模工事により、 現在のような地形が形成されたようである。 
田村氏は、義顕、隆顕、清顕と三代続くが、  天正十四年(1586)に、孫の田村清顕が急死したが、男子がいなかったため、 清顕の正室(相馬顕胤の女)が三春城主に就いたが、家臣団が伊達派と相馬派に分かれての争いとなった。 
天正十六年(1588)、相馬義胤が三春城へ入城しようとするが失敗し、 郡山合戦に勝利した伊達政宗(清顕の一人娘・愛姫の夫)が三春城に入り、伊達政宗を後見として、 清顕の甥の田村宗顕を城主にした。 
政宗はこの城を足がかりにして、南奥州を制覇した。  この間、城の周囲に多くの空堀や土塁、石積みが築かれ、 三春城は中通り(仙道)を代表する戦国の城砦となった。 
天正十八年(1590)の秀吉による小田原城攻めに、伊達政宗の指示により、 田村氏は参陣しなかったため、戦後の秀吉による奥州仕置により、田村氏は改易させられた。 
三春は一旦伊達領になるが、翌年には蒲生氏郷の領地に組み込まれ、会津若松城の支城になる。 
この時代は、蒲生氏の重臣が城代になり、本丸の周囲に石垣を築くなど、 城と城下町の整備が進められた。 
慶長三年〜六年には上杉景勝の領地に、寛永四年に蒲生忠郷が没すると加藤嘉明のの領地となると、 嘉明の三男・明利、更に翌年(1628)には嘉明の娘の子・松下長綱が、 二本松から三春藩三万石の城主になる。 
松下長綱は、三春城を近代大名の居城にふさわしい白壁に瓦葺きの城郭に改変したが、 寛永二十一年・正保元年(1644)、松下氏が改易となる。ン
翌、正保二年(1645)、秋田俊季(としすえ)が常陸宍戸から五万五千石で入封し、 以後秋田氏十一代を経て、明治に至る。 
秋田氏は、現在小学校がある、西の麓に居屋敷(御殿)を建て、日常の政務と暮らしの場とし、 山頂の本丸御殿は儀式の時だけ使用した。 
戊辰戦争では奥州越列藩同盟に加わったが、同盟を脱退し、官軍に無血降伏したため、 戦場にはなっていない。 
三春城は廃藩置県により、明治四年の廃城令により、建物のみでなく、 石垣や礎石まで払い下されたため、 一部の石垣と切岸を残すのみだが、遺構自体は保存状態が良い。 」 

三春城は標高四百七メートルの大志多山にあり、その美しさから舞鶴城とも呼ばれた。 
大手道は南側で、二之門、揚土門、三之門、大門と続き、山頂の本丸に至る。   麓と山頂との比高差は八十メートルで、搦手道は北側にあった。 
本丸を目指して、南町バス停先の左側にある城坂を上って行く。 
突き当たりを左折するが、正面は草に覆われ見えないが、竪掘があったところである。  左折した道は舗装され、右手に石垣があるが、当時からあったのかは表示がないので、分からない。 
その先の右手に「城山公園案内図」があり、秋田氏入府時(江戸時代初期)の城郭想定図が描かれている。 
案内図の右手奥に小さな石碑が二つあるが、 三春から嫁いで伊達政宗の妻になった愛姫(めごひめ)の「愛姫生誕地」碑(右側)である。 
「福島県三春町指定史跡 三春城跡」の案内板があるが、 ここが「二の門跡」で、番所もあったようである。 

舞鶴城址入口
     愛姫生誕地碑(右側)      二の門跡
舞鶴城址入口愛姫生誕地碑(右側)二の門跡



その奥に「三春」と書かれた立札があり、丸太で仕切られた砂道があるので、上って行く。 
この道は山の裾を一周するように造られているが、歩き始めると、左に上る道があるので、 その道に入った。 
この道は左右にカーブしながら上っていくと、「揚土門跡」の木柱が建っていた。 
右折して上ると、左折した坂はかなり急な坂で、途中で一息入れた。 
その先の右側に「三の門跡」の木柱がある。 

砂道
     揚土門跡      二の門跡
砂道(突き当たり)揚土門跡三の門跡



三の門跡で左折するが、右側には表示はないが、曲輪があったと思える空地があった。 
その先は左は斜面で、右側は最初は斜面であったが、少し進むと石垣が現れた。 
石垣の右側は斜め下に下がるようになるので、小さな石が数段、 中央部は大きな石と小さな石がこちゃまぜの組み方である。  左側は途中で曲るが、ここは本丸虎口跡のようで、石も表面は平に加工されている。 
地図を見ると、表門跡である。 
坂道を上りきると、広い空地に出た。 右手に東屋が見えるが。ここは本丸下段である。 
なお、東屋には続日本100名城のスタンプが置かれている。 

本丸石垣
     表門跡      東屋
右側に本丸石垣が見えてきた本丸虎口(表門跡)本丸下段部の東屋



本丸は左側が低くなっていて、横に長い楕円形、右側が本丸御殿があったところで、 家型のような六角形の地形である。 
左側の下部の左側(西側)には三重三階の三階櫓が建っていたようである。 
ここからは町役場など、三春の市街が一望できる。  また、三春は周囲が丘陵で囲まれた自然の要害であることが分かった。 
現在NHKの受信塔(?)の立っているところに長屋櫓があり、その右手に「三春城跡」の案内板がある。 内容は三春町が制作した「三春城跡」のパンフレットと同じ内容であった。 
その右手に「三春城跡」の案内板と「舞鶴城址」の石碑が建っていて、 左側には「二之丸跡」の標柱が立っている。 
秋田氏が入部し、麓に御殿が造られ、現在児童公園になっているところが案内板では 二の丸となっていて、本丸の下部は本丸下部と表示されている。 
説明がないので、推定であるが、児童公園のある二の丸は秋田氏により造られたもので、 それ以前は本丸下部が二の丸と呼ばれていたのだろう。 
東屋の裏を上ると「大広間跡」の木柱が立っていた。

三階櫓跡
     揚土門跡      大広間跡
三階櫓跡搦手口跡大広間跡



「本丸跡」の標柱がある。 江戸時代には大広間の先に台所が建っていた。 
その奥に「奥跡」の木柱があり、その先に石垣が見える。 
奥とは藩主の住居で、御座の間があったところである。 

「 正保二年(1645)に秋田氏が入封すると、新たに山麓に御殿(居屋敷)を建設して、 日常の政務や暮らしの場とし、この本丸御殿では儀式の際しか使われなくなった。  天明五年(1785)の大火で、城がほぼ全焼すると、 本丸には将軍から頂いた朱印状を治める三階櫓以外は再建されなかった。 」

その先は四段の石垣で囲まれ、石段があるので、 上ると「秋田家祖先尊霊」と記された石柱が二段の石垣の上に載っていた。 

本丸跡
     奥跡      秋田家祖先尊霊所
本丸跡奥跡秋田家祖先尊霊所



「舞鶴城址」碑から出ると、左側にかなり急な傾斜の石段があり、 直進はコンクリート敷きの道路である。  直進道を進むと右側の本丸跡との間は斜面になっているだけで、石垣ではない。 
本丸と二の丸の周囲は石垣造りであったようだが、 現在は本丸側面と二の丸の一部に石垣が少し確認できる程度である。 
坂を下ると左側に「搦手門跡」の木柱があった。 
その先で車道に出たが、江戸時代には番所があったようである。 
この後、左折して進むと石段を降りてきた道と合流した。 
その先、右に行く道はあるが、直進すると右側の小高いところに遊園器具が少しある公園がある。  ここが二の丸跡である。 
二の丸の先の道は左右の山が迫っているので、この道は切通しで造られたことが分かる。 

搦手道
     搦手門跡      切り通し道
搦手道(右)本丸斜面搦手門跡 切り通し道



道の右側に「←ニの丸散策道」とあるので、入っていく。 
木立の中を進む小道で、右側にニの丸へ上る階段があった。 
そのまま直進し、下に降りる道で降りていく。 右下に三春小学校があった。 

「 絵図ではプールとその下あたりが花畑で、 さらに降りた運動場あたりに、秋田氏が造った居屋敷(二の丸御殿)があったようである。 」

公共施設駐車場の隣にある「明徳堂」の額のある門は藩講所(藩校)明徳堂の表門である。  ここにはかって大手門があり、その先に秋田氏が造った居屋敷があった。 

「 十八世紀後半に七代藩主、秋田信季により、 藩士子弟の教育を目的に設けられた藩講所の表門で、 信季の筆による明徳堂の扁額を掲げていることから、明徳門とも呼ばれている。  戦後、歴史資料館下の駐車場から追手門があった三春小学校入口に移され、 校門として使われている。 」

三春歴史資料館の南西にある福聚寺(三春町字御免町194)は、 室町時代に三春の礎を築いた田村氏の菩提寺で、 境内に咲くしだれ桜は有名でこれまでに三度写真を撮るために訪れている。 
三春の滝桜とともに四月上旬から中旬に桜を見ながら、三春に訪れるとよいと思う。 

三春小学校(居屋敷跡)
     明徳門      福聚寺の桜
三春小学校(居屋敷跡)明徳門 福聚寺のしだれ桜



所在地:福島県田村郡三春町字桜谷5番地  
JR磐越東線三春駅から徒歩三十分
三春駅から町営バスさくら号、福島交通で、町役場前下車 
三春城のスタンプは、本丸近くのあずまやの隣のボックス内にある
また、三春町歴史民俗資料館(9時〜16時30分、入場は16時まで 月休、年末年始休) にも置かれている 



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かうんたぁ。