続日本100名城 (108) 鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)
鶴ヶ岡城は山形県鶴岡市馬場町にあった平城で、江戸時代には酒井氏を藩主
とする庄内藩の藩庁があったところである。
鶴ヶ岡城は本丸と二の丸を水堀で囲み、その外に三の丸が配置させた縄張であるが、
明治八年(1875)、鶴岡城の建物は解体され、二の丸を囲む水堀の大部分が埋められたため、
現在の姿は、下図の「本丸・二の丸配置図」とはかなり違う。
「 鶴ヶ岡城は、古くは大宝寺城と呼ばれ、鎌倉期以降戦国時代まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。
天文年間(1533年頃)、兵火のため、武藤氏は大山の尾浦城に居を移し、当城はその枝城となる。
天正十五年(1587) 武藤氏が滅び、庄内は越後の上杉氏、 次いで、慶長六年(1601) 、山形の最上義光が支配するところと
なる。
慶長八年(1603)、大宝寺城は義光の隠居城として修復され、鶴ヶ岡城と改称する。
最上氏三代目、義俊の元和八年(1622)に、お家騒動(最上騒動)が起き、最上氏は改易処分、領地没収となった。
信州松代より譜代大名の酒井忠勝が入国し、庄内十四万石(幕末は十七万石)の居城として、
近世城郭へと大改修に着手し、二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。
城が完成したのは三代目忠義の時で、五十四年の歳月を経ていた。
酒井氏は、徳川幕府の譜代大名として、明治四年(1871)まで約二百五十年間、庄内藩主を務めた。 」
庄内神社の大鳥居があるところが櫓門の大手門跡である。
「 現在、大鳥居から庄内神社まで地続きで行けるが、
江戸時代には幅約二十メートルの水堀があり、その外側が二の丸で、二の丸と内掘で本丸を守っていた。
二の丸は水堀を囲むように造られていて、左側下隅(二の丸南西隅)に、二層二階の隅櫓が建てられていた。 」
左側の残された水掘の先に見えるのは大宝館で、その下に石垣が見えるが、ここが本丸中門跡である。
「 江戸時代、本丸へは二の丸隅櫓前を右折すると、水堀に本丸中橋が架かっていた。
ここを渡ると、高麗門と楼門で構成された本丸中門があった。 」
本丸中門の周囲の堀に石垣が使用されたが、この城の他の部分は他の東北地方の城と同様、土塁で築かれていた。
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本丸・二の丸配置図 |
| 大鳥居(大手門跡) | |
本丸掘(右奥大宝館) |
本丸中門跡には大正天皇即位を記念して建てられた洋館の大宝館と藤沢周平記念館がある。
「 江戸時代には、本丸中門をくぐると左側に渡り櫓があり、その奥の北西隅にも渡り櫓があった。 」
渡り櫓跡の右側に鶴岡護国神社の社殿が建っている。
「 鶴岡護国神社は明治二十八年(1895)、戊辰、西南の戦役に殉じられた藩士の霊を祀るために建立されたもので、
拝殿は酒井氏十代藩主忠器の御霊廟で、江戸時代の貴重な霊廟建築である。 」
鶴岡護国神社の右側、大宝館の道の反対に「明治天皇御駐輩之地」の石碑が立っている。
藤沢周平記念館の隣の空地に「本丸御殿御玄関跡」の石碑が建っている。
本丸には本丸御殿が建てられ、城主の居館である他、庄内藩の藩庁でもあった。
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洋館の大宝館 |
| 明治天皇御駐輩之地碑 | |
本丸御殿御玄関跡 |
本丸御殿跡には庄内神社の社殿があり、社務所に続100名城のスタンプが置かれている。
「 明治十年(1877)、出羽之国庄内の総鎮守として、
旧庄内藩主を敬慕する人々の総意により、酒井家(初代忠次、二代家次、三代忠勝、九代忠徳)を祭神とした庄内神社が、創建された。 」
庄内神社の右側には「本丸内北門跡」の石柱が立っている。 北門は本丸から二の丸に通じる裏門(通用門)である。
その奥の東北隅の土塁の上には「本丸御角櫓跡」の標柱が立っている。
「 鶴ヶ岡城は元和八年(1622)に大改修工事が行われたが、一国一城令が公布された時でもあり、
譜代大名ではあるが遠慮して、天守の代わりに、二層二階の隅櫓を建てたようである。 」
現在、鶴ヶ岡城の本丸と二の丸の一部は鶴岡公園になっている。
三の丸には、二の丸から移された九代目藩主忠徳が開設した藩校「致道館」がある他、
致道博物館、鶴岡市役所などの建物が建っている。
致道博物館には旧庄内藩主御隠居殿や酒井家御用屋敷跡庭園などがある。
酒井家御用屋敷跡庭園は酒井氏庭園として国の名勝に指定された。
また、鶴岡公園は日本さくら名所100選に選ばれている。
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致道館表御門 |
| 旧庄内藩主御隠居殿 | |
酒井家御用屋敷跡庭園 |
所在地:山形県鶴岡市馬場町
JR鶴岡駅よりバスで10分市役所前バス停で下車、すぐ
鶴ヶ岡城のスタンプは、本丸跡にある 庄内神社(9時〜16時30分、
3月〜11月は17時まで) の社務所の左隅に置かれている
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