続日本100名城 (107) 秋田城(あきたじょう)






秋田城は秋田平野の西、雄物川が日本海に注ぐ河口の右岸の独立した低丘陵(標高約30〜50mの通称高清水) の上に築かれた古代城柵(大規模な地方官庁)である。 
秋田城跡は昭和十四年(1939)に国指定史跡となり、 かつての城域の一部は秋田城跡史跡公園になっている。 

「 秋田城は奈良時代の創建から十世紀中頃までの平安時代にかけて、 最北の城柵として有事の時に備え兵士が常駐していた。 
国府も置かれ、戸籍の作成、税の徴収などが行われた。  また、大和政権の支配が及ばない津軽、北海道の蝦夷に対する支配や交易、大陸との外交などに重要な役割を担っていた。 
奈良時代から平安時代にかけて、現在の中国東北部にあった渤海国(698〜926)との交流の窓口は、秋田城であったと考えられ、 八世紀に来航した十三回のうち六回が出羽国に來着していて、来日した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高い。 」 

秋田市立秋田城跡歴史資料館に寄ると、秋田城の盛衰について知ることができる。
また、秋田城のジオラマがあった。

秋田城の歴史
「 天平五年(733)、庄内地方から秋田村高清水岡に遷された出羽柵が、秋田城の始まり、創建である。 
当初は城全体が壮麗な瓦屋根の築地塀により囲まれていた。 
城壁で囲まれた外郭の東西南北に出入口の門が造られ、海を望む西門は二階建てであった、と考えられる。 
中心施設の政庁に向けて、外郭東門と外郭南門から城内道路(大路・約12m)が伸びていた。 
政庁も瓦屋根の築地塀で囲まれ、正殿と脇殿に囲まれた正面の広場、北・北西の建物が配置されていた。 
天平宝字四年(760)頃に秋田城に改称され、城全体が改修される。 
外側の城壁の築地塀は瓦屋根でなくなり、政庁も、南半分が材木塀になった。 
また、東門から政庁に至る城内東大路は南側が塀で区画された。 
平安時代の初め、延暦二十三年(804)、城全体が大改修され、 外側の城壁は築地塀より柱列による材木塀に作り替えられ、新たに一定間隔で櫓が建てられた。 
城内道路は道幅が9mと狭くなった。 政庁も柱列による材木塀に作り替えられ、 外郭の門や政庁など主要な施設の屋根も部分的にしか、瓦が使われなくなった。 
政庁は建物が増え、東門が八脚門になるなど、施設が充実する。 
当時、秋田城周辺に秋田城に勤務する役人とそれを支える商人などの和人が住み、郊外に蝦夷村があった。  秋田以北の蝦夷人は交易などの際、訪れてきていた。 
九世紀に入ると、元慶二年(878)、秋田城下の蝦夷が一斉蜂起する元慶の乱が起きる。 
翌年、藤原保則が秋田城を再建する。  城壁はより強固な材木列に作り替えられ、櫓も大きなものに作り替えられる。 
城内東西通路(大路)は大規模に整備される。 
政庁は引き続き柱列による材木塀で囲まれたが、瓦屋根の施設はなくなり、東門は四脚門となる。  城内西側の焼山地区では大規模な倉庫群が無くなり、 城内東側の大畑地区では鍛冶工房などの生産施設が減少し、役所の機能もいくつかにまとめられた。  防御性と軍事上の強化は計られたが、その他の機能は再編成され、集約された。 
平将門の乱の承平五年(935)頃古代城柵秋田城は終焉を迎えた。 」

外郭の門や政庁の正殿などの主要な建物は瓦屋根であった。
奈良時代に城壁の屋根に使われていた瓦は、丸瓦と平瓦を使った本瓦葺きという重ねかたであった。 
資料館には、その一部を復元したものが展示されていいた。
秋田城跡歴史資料館を出ると、正面に小高く聳え、急な石段がある。 そこを上ったところが秋田城の政庁跡である。
政庁予想図として、小さな建物の模型が展示されていた。 

「 秋田城は雄物川河口の丘陵上に日本海から吹き上げた飛砂が堆積し、その上に造られた。 
政庁域は東西約九十四メートル、南北約七十七メートルで、 南を正面とするやや東西に長い長方形で、他の城柵に見られない横長の形状である。 
正殿は秋田城で一番重要な建物で、 正殿や前面の広場では、出羽国の政務や定期的に貢物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物、宴が行われていた、 と考えられる。  また、時には外国からの使節を迎えての儀式も行われた。 
この建物はほぼ同じ場所に六回建て替えられている。  最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物であるが、 それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。 」

秋田城ジオラマ
     復元瓦      秋田城政庁
秋田城ジオラマ
復元瓦
政庁予想図



政庁に入る門とそれを囲む瓦葺きと築地塀が再現されている。 
その前に外郭の東門から続く城内道路(大路・約12m)が一部再現されている。 
政庁には四つの建物が建てられていたが、広い空地のに、発掘調査に基づいて、建物の柱の位置や敷地が再現されていた。

門と築地塀
     城内道路(大路)      正殿跡
門と築地塀
城内道路(大路)
正殿跡



政庁跡の北側には秋田県護国神社がある。 護国神社は秋田城の城址に遷座したものである。 
政庁から東に続く城内道路(大路)の一帯が史跡公園になっている。
県道を横断する左側に大型駐車場と公園管理棟があり、100名城のスタンプはここか、歴史資料館で押すことができる。 
道を横断すると東門がある。 この門は復元されたもので、秋田城はこの周囲を外壁で囲んでいた。

「 外郭東門は平成元年の発掘調査で発見された奈良時代の外郭東門を復元したものである。  東門の特徴は軒先につく軒瓦がないこと、部材をつなぐところに舟肘木を使用していること。  材木の仕上げは槍の穂先のようなやりかんなという古代と同じ工具で削り、また、表面は丹土を塗っている。 
外郭築地は土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で造られている。 
築地の手前の深さ七メートルの土取り穴は、築地を積む土を取るときにできた穴で、後にゴミ捨て場として使われ、 発掘時には多数の漆紙文書、木簡、猪、馬、鯨、鳥などの骨が発掘された。 」

門をくぐると右手に古代沼が見える。 

「 この沼は縄文時代以前に飛び砂によって沢がせき止められて出来た自然の沼を復元したものである。
沼は城内で行われた大祓いの行事で使われた人形、斎串、矢羽根、人面墨書土偶などを流す神聖な場として利用された。 」

ここは鵜の木地区で寺院があった場所である。 
古代沼の先にあるのが古代水洗トイレである。

「 八世紀後半に造られた厠舎(かわや)で、建物のなかに三基の便槽が並び、 外には約六メートルの木樋とその先端には沈殿槽が作られている。 
渤海国との交流により造られたのではという説がある。 」

古代池の南側に井戸跡や建物跡があった。 このあたりに四天王寺などの寺院が建っていたのだろうか?  

外壁と東門
     古代水洗トイレ      井戸跡と建物跡
外壁と外郭東門
古代水洗トイレ
井戸跡と建物跡



所在地:秋田市寺内焼山  
JR秋田駅からバス「将軍野線」または「寺内経由土崎線」で20分、秋田城跡歴史資料館前下車、すぐ 
秋田城のスタンプは、史跡公園管理棟か、秋田市立秋田城跡歴史資料館(018-845-1837 9時〜16時30分)にて 



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かうんたぁ。