続日本100名城 (106) 脇本城(わきもとじょう)





脇本城は、戦国時代に青森県の北から北海道の南、そして秋田県の半分以上を支配した安東氏の城で、 秋田県男鹿市にある山城である。 脇本城跡は平成十六年(2004)に国の史跡に指定された。

「 安東愛季(ちかすえ)は元亀元年(1570)に檜山(能代)と湊(秋田市土崎)の両安東氏を統一し、その領地を支配。  天正五年(1577)に、嫡子業季に湊、檜山の両城を譲り、自身はもともとあった脇本城に大規模な修復を行い居城とした。 
脇本城が廃城になった時期は明らかになっていないが、 慶長七年(1602)、安東(秋田氏に改姓)実季が宍戸(茨城県)へ移封され、 佐竹義宣が秋田に入り、久保田城が築城されたことから考えると、 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置後から慶長七年(1602)の佐竹氏による久保田城築城の間に、 廃城になったと思われる。 
廃城後も大規模開発が行われなかったことや地域住民の環境整備が継続的に行われたことで、 内館地区は当時の姿が残されている。 
平成五年(1993)の遺跡調査などにより、多数の曲輪、土塁、空堀、井戸跡などの他、 虎口(こぐち)と呼ばれる城の入口部などが確認された。 また、当時使用した陶磁器などが出土した。 」

城の入口は国道101号の海岸脇の駐車場で、菅原神社が目印。 
駐車場は城の入口である史蹟脇本城案内所に数台、菅原神社前に数台あるが、 国道脇の駐車場に置いて歩いて向かうのが一番だろう。 
左側に菅原神社の石段があるが、右側の車道を上ると、菅原神社前を通り、 プレハブ小屋の脇本城城跡案内所に至る。 案内所は当日、無人であった。 
続日本100名城のスタンプを押し、用意されているパンフレットも入手し、見学を開始した。

「 脇本城は生鼻崎から本明寺の上の馬乗り場を経て、脇本第一小学校上の兜ヶ崎までを含む、 総面積約百五十ヘクタールに及び、東北最大級といわれる。 
内館地区、馬乗り場地区、兜ヶ崎・打ヶ崎地区、乍木地区、お念堂地区という五地区からなり、 さらに、短冊形の地割された城下町と現在も寺が多く残る寺院地区で、構成されていた。 
現在見学できるのは内館地区と馬乗り場地区である。 」

右にカーブする道を進むと、内館地区に到着。 右手に細長く続く曲輪群があり、 左手には三角形に形成された曲輪群がある。 
左端に近い曲輪(南端)には「この付近一帯には数多くの館跡があり、脇本城主で ある安東愛季の家臣屋敷があったところと考えられている。」 という説明柱が立っていて、その先には海が見える。 
一番端の曲輪の南側は生鼻崎で、絶壁を形成し、日本海が一望出来、眼下に国道が見える。  生鼻崎は海上交通(日本海、八郎潟)、陸上の要所(天下道)であり、標高も百メートル前後あることから、城づくりに最適な環境であった。 

脇本城跡碑
     南曲輪跡      案内標柱
「脇本城跡」碑と駐車場
南曲輪跡
案内標柱



二つの南端の曲輪と北側の曲輪の間は少し凹んでいる。  往古の竪掘跡とあったが、今はなだらかになっているので、竪掘の感じはしなかった。 
「この八つの曲輪群の西側は、土塁が築かれていた。」 という説明板があった。 
先程の内館地区の看板に戻り、右側の曲輪群に行くと、凹んでいるところに「空掘」の標示板があるが、 ここは往時の虎口跡である。 

竪掘跡
     土塁跡      二の丸跡
竪掘跡
土塁跡
虎口跡



復元想像図が描かれていて、「空掘」の木柱が立っているところに門(虎口)があり、 空掘の左側(西)には三つの曲輪、右側(東)には城主が住む館と儀式を行う場所(主殿・会所)があった、と想定される、という説明がある。
主殿と城主館の間に土の壁のように聳える土塁は高さ六メートルで、脇本城最大規模である。 
この土塁は空掘を掘った際出た土を使用したと推定していた。 
主殿側の土塁の下に井戸跡があった。 
井戸跡から左に進むと城主館に通じる通路があり、通路の下には「館神堂」の標木が立っている。 

復元想像図
     井戸跡      通路
復元想像図
井戸跡
通路



通路を上るとその先には広い空地が広がっている。
城主館は南、北、西の三方を土塁で囲まれている。 
東側は低い土手状の高まりが残っていて、その真中部分が途切れている。 
そのことから、途切れた部分に門、その両側に塀があった、と推定される。 
ここは、城下町を見下ろす絶好の場所になっている。 
城主館にも井戸跡があった。 落城の際、城主が金の茶釜をどこかの井戸に投げ入れたという伝説が残っている。 
城主館から細い道を下ると「天下道」の標柱が立っていて、「細葉の椿」の脇に出た。
天下道と呼ばれる古道は中世に整備された道で、 現在は城の西側が市道により分断されていて、通り抜けができないが、 かってはここから城の内館を横切って船川・北浦方面に向う主要な道として長い間利用されていた。
「細葉の椿」の左手に菅原神社があった。
菅原神社は安藤実季が天正十九年(1591)に建立したもので、承応二年(1653)に現在地に移転している。 
無人の菅原神社にお参りして、脇本城の探訪は終了した。 

城主館跡
     天下道      菅原神社
城主館跡
天下道
菅原神社



所在地:秋田県男鹿市脇本   
JR男鹿線脇本駅から徒歩35分 
脇本城のスタンプは菅原神社より上の脇本城城跡案内所(プレハブ小屋)の中にある 



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かうんたぁ。