続日本100名城 (105) 白石城(しろいしじょう)
白石城は別名、益岡城あるいは枡岡城ともいわれた宮城県白石市の中心部にあった平山城である。
「 白石城は、鎌倉時代、刈田氏の居館であった、と伝えられる。
刈田氏は、後に白石氏を名乗り、伊達氏の家臣となる。 伊達政宗に仕えた白石宗実が著名である。
天正十九年(1591)、豊臣秀吉による奥州仕置で、苅田郡は 会津に封された蒲生氏郷の領地となり、
白石城には家臣の蒲生郷成が入った。 郷成により、白石城は伊達家に対する備えとして、
近世的な城に改造され、益岡城と呼ばれた。
慶長三年(1598)、蒲生氏郷は宇都宮へ移封され、代わりに上杉景勝が会津に入り、
その家臣である甘糟景継が白石城の城主になり、城を修築した。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際、白石城の戦いが起こり、
伊達政宗が上杉景勝から白石城を奪い取り、再び伊達領になり、
政宗の叔父、石川昭光が城代として入った。
慶長七年(1602)、 伊達政宗の側近である片倉小十郎景綱が白石城を受領した。
慶長二十年(1615)、江戸幕府は一国一城令を発するが、
仙台藩伊達氏の支城として例外的に認められ、
明治維新までの二百六十余年間、片倉氏の居城として存続した。 」
白石城は、奥州山脈と阿武隈高地に挟まれた白石盆地の独立丘陵地の北端、
標高七十六メートルの地に築かれた平山城である。
白石城は本丸、二の丸を中心に幾重にも外郭を備えた堅城であった。
「 白石城は、南北に長い白石丘陵の北端に築城され、
同城の南側には空堀を掘って丘陵の尾根の連続性を断っている。
空堀より南側の白石丘陵上には常林寺、清林寺、傑山寺などの寺院が並ぶ。
麓との高低差は二十メートルで、
丘陵の頂きに本丸、二の丸、中の丸、西曲輪、中段に沼の丸、南の丸、巽曲輪、帯曲輪、厩曲輪、
平地部分に三の丸、外曲輪という六丸五曲輪の構成であった。 」
本丸には三階櫓が建っていた。 三階櫓は支城という格と幕府への配慮から、
天守の名をはばかり、「大櫓」と名づけられた、とされる。
文政二年(1819)、白石城は火災で焼失するが、四年後の片倉宗景の時に再建された。
明治七年の廃城令により廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却されたり、売却された。
売却代金は特に片倉家中の北海道移住費用に充てられたといわれる。
三階櫓は石垣なども撤去され、更地になった。
厩口門は市内の延命寺の山門に、東口門は市内の当信寺山門に移築されている。
白石城跡は、明治三十三年(1900)に益岡公園となった。
平成七年(1995)、伊達政宗の片腕として名をはせた片倉小十郎景綱の偉業を偲び、
三階櫓(天守閣)と大手の一ノ門と二ノ門が、史実に基づき、木造で忠実に復元された。
虎口のうち、大手門付近には幅が変化し、鍵の手に折れる通路などの工夫がみられる。
また、土塁は当時のものがそのまま残っている。
白石城と片倉小十郎のゆかりの地について、妻が書いた
okanの「白石城訪問記」があるので、ご覧ください。
所在地:宮城県白石市益岡町1−16
JR東北新幹線白石蔵王駅から車で5分、東北本線白石駅から徒歩10分
白石城のスタンプは白石城天守(4月〜10月9時〜17時)にて
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