日本100名城 (103) 浪岡城(なみおかじょう)






浪岡城は陸奥守、鎮守府将軍、北畠顕家の流れをくむ北畠顕義が十五世紀後半に築いたと伝わる平城である。  浪岡城跡は、昭和十五年(194)に青森県内で初めて国の史跡に指定され、 平成二十九年(2017)に続日本100名城(103番)に選定された。

「 浪岡城は青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町)にあった、 陸奥守、鎮守府将軍、北畠顕家の流れをくむ北畠顕義が十五世紀後半に築いたと伝わる平城である。 
浪岡御所と称された北畠氏は十六世紀に入ると大浦、大光寺氏と鼎立して勢威をふるったが、  九代目北畠具運が、永禄五年(1562)に、一族の川原御所、北畠具信に殺害されたことで衰運に向かい、  天正六年(1578)、大浦為信(後の津軽為信)により浪岡城を攻略され、十代目北畠顕村が割腹し、 浪岡御所は絶え、廃城になった。 」

浪岡城は、北東へと続く丘陵の南端に位置し、城の南側の急峻な崖下には浪岡川と正平津川が流れ、天然の堀と水源を兼ねていた。
浪岡城は東西千二百メートル、南北六百メートルの敷地に、 幅十メートル〜 三十メートルの二重堀で分けられた八つの館(郭)があり、   各館は丘陵を掘切るように構築され、東から東館、猿楽館、北館、内館、西館、検校館の順になっていた。 

鉄御門跡
浪岡城配置図



浪岡駅からタクシーで向い、降りたところは内館の入口で、標識があった。

「 内館は主郭で、城主の居館があり、広さは東西約百二十メートル、南北約八十五メートルで、 南に正門、北に裏口があり、土塁に通じていた。 
築城当時の堀は深さ五メートル程あったが、現在の堀跡は当時より二メートル程浅くなっている。  中央に中土塁があり、一本の堀を二重堀や三重堀にしていて、 この堀に住む場所の区別をしたり、守りを強化していた。 また、中土塁は通路にも使用された。 」

内館の入口
     内館      堀と中土塁
内館の入口内館跡堀と中土塁



内館の西の西館は、東西は北から約二百メートルメートル、南北約百五十メートルで、 北館、検校館の間に二重の掘割、その中央に土居があった。

「 北館は全郭の中でもっとも広く、東西約二百メートル、南北約百メートルで、 全面が二重の堀で囲まれ、堀の中央の敷地は1500年〜1550年頃は屋敷町のように規則的に区画されていた。 
現在板塀で区画しているが、当時何を使って区画していたかは分かっていない。 
一区画には大きな建物が一軒と小さな建物が数軒、井戸一つで構成され、家臣の屋敷が建っていた。 
大きな建物は地面に掘った穴に直接柱を建てる掘立柱建物で、 小さな建物は地面を掘り下げて地下に床を作る竪穴建物だった。 」

井戸は四〜五メートルの深さがあり、なかには崩れないよう木で補強されていたものもある。 
北館の中に迷路のような道を造り、本丸である内館までの通路をわかりにくくしたこと、 ここは家臣の住宅で、城に入ってきた人々を監視していたと思われる。  このようにして、天守や石垣が出来る前には城の中心を守る工夫をしていたのである。 

西館
     北館      北館推定復元
西館跡北館跡北館推定復元



北館の中を通り、下に降りると堀が重なっているのが分かる。 
橋を二つ渡ると東館跡である。

「 東館の最広部は東西約百二十メートル、南北約七十メートルである。 
北、南に二重の堀があり、南の猿楽館の堀は中央に中土塁(土居)がある。
浪岡城落城後は東館に一時、代官所が置かれたという。 」

東館の南にあるが猿楽館で、最広部は東西約八十メートル、南北約八十メートルで、 西と北に二重の堀があり、東は断崖である。  猿楽館の名称はこの地で猿楽が催されたことによる。 
新館は東館の東と国道の南の地域で、南北約九十メートル、東西は不明。   西に掘割があり、南は断崖となっている。 
新館は浪岡補佐の目的で置かれた津軽郡代関係の武士の居館だったと思われる。 

東館
     二重堀      猿楽館
東館跡二重堀猿楽館跡



所在地:青森市浪岡大字浪岡字岡田43  
JR奥羽本線浪岡駅から徒歩で30分  
JR浪岡駅からバスで5分(市民バス「青森空港経由青森駅行に乗車し、中世の館前下車。)そこから約800m、徒歩13分 
バスの本数が少ないので、タクシーの利用をすすめたい 
浪岡城のスタンプは中世の館か浪岡駅に併設の交流施設のインフォーメーションにある  



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かうんたぁ。