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史跡志苔館跡碑 | 和人とアイヌの慰霊碑 | 志海苔の家並と函館山遠望 |
志苔館は自然地形を活かし、四方に土塁と薬研または箱薬研状の空堀が巡らされ、全体でほぼ長方形の形状を呈していた。
館入口には空掘があり、木の橋が架かっているが、その近くに「郭外遺構」の説明板がある。
「 郭外には主に外敵からの防御を目的とした濠、土塁、門、柵の他、橋、土橋等が配されていた。 館の開口部に当る西側には二重の濠が掘られ、北側、東側、南側は自然の沢を利用して濠としていた。 発掘調査により、館が築かれた当時は、両側に外柵を設け、その中央部の門を通過し、 薬研の二重濠に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して、郭内に入る構造であったことが分かった。 その後、郭外は郭内ともに造り変えられ、外柵は埋まられて、土塁が築かれ、郭内の濠も薬研から箱薬研へ、 橋も土橋へと移行した。 ここには館構築当時の姿をできるだけ復元するとともに、 その後に構築された土塁、土橋等も保護、保存し、館の変遷が分かるようにしている。 」
なお、北側と西側の空壕は幅約五メートル〜十メートル、最も深い所で約三・五メートルの深さをもっていた。
また、土塁の高さは北側で約四メートル〜四・五メートル、南側で約一メートル〜一・五メートルだったようである。
郭内に足を踏み入れると、門跡、建物跡、柵跡、井戸跡が石札に表示されているとともに、
遺構に沿って埋めてあるブロックでその形状をうかがい知ることができる。
井戸跡は発掘調査により、地表下約四メートルのところから、
木製の井戸枠が発見された。 郭内に存在した唯一の井戸である。
「 この木製の井戸枠は四隅に置いた柱を桟で繋ぎ、柱と柱との間に、
縦板を並べた、「方形隅柱横桟式」と呼ばれるもので、室町時代頃造られたと考えられる。
井戸の中から、箸、曲物、桶の一部、銅銭などが見つかったという。 」
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空掘 | 建物跡 | 井戸跡 |
発掘調査で、郭内から十五世紀前半ごろを主体とする青磁、白磁、珠洲焼、越前焼、古瀬戸などの陶磁器や金属製品などが出土したが、
これらの遺物の年代は「新羅之記録」に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時期(1457年)と一致する。
また、昭和四十三年(1968)に付近で行われた道路工事で、三十八万枚の渡来銭が入った三つの甕が発見された。
一カ所から発見された古銭としては国内最大級の量で、現在は国の重要文化財として市立函館博物館に収蔵、展示されている。
志苔館遺跡は昭和九年(1934)に国の史跡に指定され、昭和五十二年(1977)に腰曲輪、濠、溪沢全体が追加指定された。
所在地:函館市志海苔町、赤坂町
函館バス下海岸線(7・79・97系統)「志海苔」停留所下車 (徒歩約5分)
「湯倉神社前」停留所までは、函館市電湯の川線(湯の川停留場乗継)も利用可能
志苔館のスタンプは史跡内のあずまやに置かれている