日本100名城 (100) 首里城(しゅりじょう)






首里城は琉球王国の栄華を伝える華麗なる王城である。

「 琉球王の居城だった首里城は、十四世紀末に創建された中国や日本の文化が混合する琉球独特の城である。
首里城の基本的な縄張りが完成したのは尚真王と尚清王の時代である。  城は東西約四百メートル、南北二百メートルの規模で、内郭と外郭で構成されていた。 
内郭は、御庭(うーなー)を中心として行政空間、その南側の京の内という祭祀空間、 東側の御内原(おうちばら)という居住空間からなり、正殿、南殿、北殿など主な建物は内郭におかれていた。 
内郭の東側を包むようにして外郭があった。  首里城は王位争いや失火から三度焼失したが再建された。 
明治になって軍が入ってのち、学校になった。  大正十四年に国宝に指定されたが、昭和二十年の太平洋戦争・沖縄戦で城のすべてが灰塵に帰した。 
昭和四十七年(1972)五月十五日、沖縄が本土復帰した時は、 わずかに守礼門(しゅれいもん)と園比屋武御嶽石門と円覚寺総門、弁財天堂があっただけで、 首里城周辺は沖縄戦により完全に焼け落ちていた。 
その後、首里城の再建に取り込み、平成四年(1992)には正殿など城の建物が再建された。 
しかし、火災により、再び焼失してしまった。
以下は焼失前に訪問したもので、写真も記事も当時のものである。 」 

守礼門は首里を東西に貫く大通りの綾門大道の東側にある楼門で、本土の城なら首里城の大手門に相当する。
扉を持たない中国の牌楼様式の門を基にしているが、柱は四本、二層の屋根を持つ赤瓦は琉球独自のもので、 まさに沖縄を代表する建築物である。 

「 扁額には「守禮之邦」とあり、「琉球は礼節を重んじる国である。」という意味を持つ、中国の使者への外交上のメッツセージだった。 
中国からの冊封使が琉球に来た際には、琉球国王以下の高官らが守礼門まで出迎えて、三跪九叩頭の礼をとっていた。  沖縄戦で焼失したが、県民の強い希望により昭和三十三年(1958)に復元され、現在は沖縄県指定有形文化財である。 」

園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門は、首里城の歓会門と守礼門との間にある石造りの門で、 背後にあるのが園比屋武御嶽である。

「 御嶽(うたき)は、国王が各地を巡航する旅に出るにあたり、必ず拝礼した場所で、 最高神女である聞得大君(きこえおおきみ)が就任する際に最初に拝礼する聖域で、 王家尚氏ゆかりの島・伊平屋島の神・田の上のソノヒヤブを勧請し、祭っている。 
御嶽は広範な森だったが、小学校の敷地になり、小さなものになっているが、御嶽石門は御嶽の礼拝所である。 
第二尚氏第三代王・尚真のとき(1519)首里に連れてこられた西塘により創建されたという。 
昭和八年(1933)に国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに荒廃したため、指定が解除された。  昭和三十二年(1957)に復元されたが、その後、旧石門の残欠を再利用して修復作業が行われた。 」 

石門を注意深く見てみると、明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるのはこのためである。 
園比屋武御嶽石門は、昭和四十七年(1972)に国の重要文化財に指定され、平成十二年(2000)に首里城跡などとともに、 琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

守礼門
     御嶽石門      城壁
守礼門
園比屋武御嶽石門
首里城城壁



御嶽石門を過ぎると、あまへ御門(うじょう)と称される、首里城の正門である歡會門(かんかいもん)に出る。

「 歡會門は首里城の城壁内に入る第一の正門で、 中国皇帝の使者・冊封使などを歓迎するという意味で、この名が付いた。  門の両側の一対の獅子像シーサーは魔除けの意味を持っている。  1500年前後に創建されたが、昭和二十年(1945)の沖縄戦で焼失、昭和四十九年(1974)に再建された。 」

歡會門をくぐると、龍樋、瑞泉門、漏刻門、広福門がある。

「 赤い建物の広福門は、福を行き渡らせるという意味で、 建物そのものが門の機能を持っているのが特徴である。 」

門の左側は、士族の財産を巡る争いを調停する大与座、右側は神社、仏閣を管理する寺社座という役所になっていた。 
明治末期に撤去されたが、平成四年(1992)に再建された。 
広福門をぬけると広場で、正面にあるのは首里森御嶽で、首里城にある御嶽の一つである。 
その先にある赤い建物は奉神門で、ここから先は有料である。 

「 奉神門は別名君誇御門といい、向って左側は薬、茶、タバコを扱った納屋、 右側は城内の儀式などに使われた君誇という部屋になっていた。  三つの入口のうち、中央は国王や中国の冊封使などの身分の高い人だけが通ることができた。 」

歡會門
     首里森御嶽      奉神門
夜の歡會門首里森御嶽奉神門



奉神門をくぐると広い広場に出て、正面に見えるのは正殿である。 
右側に連なる建物は、南殿・番所、書院・鎖之間と庭園、奥書院、黄金御殿・寄満・近習詰所で、左側に北殿が建っている。 
首里城は本土復帰の記念事業として十八世紀頃の姿を基に復元作業が行われ、正殿が完成したのは平成四年、  その後、南殿、番所、書院、鎖之間などが復元された。

「 冊封使一行が入国した時、この広場で国王は出迎えた。  正殿正面の唐破風妻飾には中央に火焔宝珠と大かえる股、両脇に金龍と瑞雲の彫刻が施されている。  正殿にはさまざまな彫刻で飾られるが、向拝部奥小壁には立体的に彫られた獅子と金龍もその一つである。  また、正面の柱には国王の象徴である吽形と阿形の龍が対になって描かれていて、 頭棟飾りなどあざやかな飾りと威風堂々とした造りになっている。 
  正殿の前にある大龍柱は高さ4.1m(龍柱3.1m、台座1m)で、吽形と阿形の対になっている。  
正殿の一階は下庫理(しちゃぐい)と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場所である。  中央の華麗な部分が御差床(うさすか)と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御する王座で、 左右に国王の子や孫が着座した平御差床があった。 
二階は大庫理(うぶぐい)で、日常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した空間である。 
御差床の後方には「酉のみこちゃ」「おせんみこちゃ」と呼ばれる間がある。  おせんみこちゃは国王と女官が毎朝、国家の安泰や子孫繁栄を祈願した場所といわれる。 
二階の御差床は国王の王座として様々な儀式や祝宴が行われたところである。  御差床の正面には御庭に面した小部屋があり、正月の儀式の時など、国王が椅子(うちゅうい)に座り、 御庭に並ぶ高官の謁見を受けた。 なお、背面には「中山世土」の扁額が見える。 
北殿は評定所と呼ばれる重要案件を詮議する政務の中枢機関で、また、冊封使を歓待した場所でもあった。 
南殿は二階建ての建物で、年間を通して行催事などが行われ、薩摩藩の役人の接待を行う場所としても使用された。 
番所は一階平屋建てで、首里城に登城してきた人々の取次を行っていた。 
国王が日常の執務を行った場所が書院で、取り次ぎ役や近習など側近がその周辺に控えていた。  冊封使や那覇駐在の薩摩役人を招き、ここで接待を行うこともあった。 
鎖之間は王子などの控所であり、また諸役の者たちを招き、懇談する施設だった。 
その前にある庭園は城内唯一の本格的庭園である。  書院に招かれた冊封使たちはこの庭園の魅力を讃える歌を詠んだという。 
正殿の東側一帯は御内原(おうちばら)と呼ばれ、国王とその親族、そこに仕える多くの女性が暮らす男性禁制の場で、 正殿を境に、西側が政治や外交を中心とした表の場であるのに対し、ここは女性がすべてを取り仕切る、 いわば内の世界であった。 
黄金御殿(くがにうどうん)は国王や王妃・王母のプライベートゾーンといえる建物で、 二階には居間や寝室があったという。 奥書院は国王が執務の合間に休息した場所で、三間X三間半で、 国王の部屋の他に奥書院奉行の控えの部屋があった。  往時の奥書院は北側の近習詰所や西側の御物当詰所につながっていた。 
近習詰所は近習頭や近習役、筆者、側近など、約二十名あまりの役人が詰めていた。 
以上の建物は、遺構や古地図などに基づき復元された。 
帰り道に見える淑順門は国王やその家族が暮らす御内原への表門で、別名「みもの御門」「うなか御門」ともいい、 門の造りは櫓門形式・入母屋造、本瓦葺となっている。 
久慶門は昭和五十九年(1984)に再建されたものである。 

正殿
     書院・鎖之間・庭園      淑順門
首里城正殿
書院・鎖之間・庭園
淑順門



所在地:沖縄県那覇市首里当蔵町3  
ゆいレールでは「儀保駅」、「首里駅」から徒歩約15分  
バスでは那覇バスターミナルから「46番 糸満西原線(鳥堀経由)」で約20分、「首里公園入口」下車、徒歩約5分  
日本100名城の首里城のスタンプは首里杜館、系図館・用物館、北殿のいずれかにて  
首里杜館(那覇市首里金城町1−1)7月第1水と木休 4月〜6月8時〜20時、7月〜9月8時〜21時、10月〜3月8時〜19時 
系図館、用物館(那覇市当蔵町3)   休館日と営業時間は首里杜館と同じ      
北殿(那覇市当蔵町3) 7月第1水と木休  4月〜6月8時〜19時、7月〜9月8時〜20時、10月〜11月8時〜19時、12月〜3月8時〜18時 



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かうんたぁ。