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平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをカーザフという。
ここは一段と低い所で、その両側は切り立った谷底になっていて、
露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったと想像できるが、
現在は大掛かりな工事中だった。
平郎門から主郭に向ってまっすぐに伸びる七五三形式の石階段は1960年代に整備されたものである。
本来の登城道は門から城内に向って石階段の右手側にあった。/p>
「 旧道は大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、 敵兵が攻め込んでも大勢の兵が上の郭まで一気に入れない工夫された造りになっていた。 」
平郎門からまっすぐ伸びた七五三形式の階段を登りつめると開けた広場に出る。
ここは大庭(ウーミヤー)とよばれる政治や宗教儀式が行われたと考えられるところである。
志慶真乙樽(しげまうとうたる)の歌碑が建っていて、
「 今帰仁城 しもなりの九年母 志慶真乙樽が ぬきやいはきやい 」 と記されていた。
大庭の東南川にカラウカーと呼ばれるくぼんだ岩石があり、常時水をたたえている。
かって、女官たち髪を洗い、水量で吉凶を占ったと伝えられる。
大庭の北側は北殿跡(ハサギミヤー)と呼ばれ、現在も香炉が設置され、重要な祭祀の場になっているという。
北殿跡の西側にあるツイツギ(城内下の御嶽)は城(ぐすく)ライミの時、ここで祭祀が行われた。
神名はツイツギイシズ御イベとされる。
北殿跡の北側、一段高いところは御内原と呼ばれ、かつて女官部屋があったとされるところである。/p>
「 御内原の隅に自然石が高さ一メートル位の石垣に囲まれた拝所は、 テンチジアマチジ(城内上の御嶽)である。 今帰仁城で一番神聖な場所で、オモロで「今帰仁(みやぎせん)のカナヒヤブ」と謡われたとある。 」
北端からの眺望は城内でも最も開けていて、今帰仁城壁のほぼ全てを望むことができる。
また、国頭の山並みや離島の伊平屋、伊是名島を眺めることができる。
大庭の東側にある一段高くなった郭を主郭(俗称本丸)と呼んでいる。/p>
「 主郭には多くの礎石が現存し、一部移動させられた石もあるが、かつての建物の姿が想像できる。
四年間の発掘調査の結果、十三世紀終わりから十七世紀初めまで、城が機能していたことが分った。 」
火神の祠(ひのかんのほこら)の前には四基の石灯寵と「山北今帰仁城監守来歴碑記」の石碑が建っている。
「 火神の祠は、今帰仁城監守が首里へ引き揚げた1665年頃に設置されたと考えられる。
現在の祠は、戦後に改築したものを城の整備事業に伴い、現在の位置に移築した。 」
説明板「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)」
「 今帰仁按司十世宣謨が、1749年、首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、
故地を顕彰すべく建立された。
今帰仁監守は尚巴志が日本暦応永二十三年(1416)に山北王を滅ぼした五年後に第二子尚忠を派遣したことに始まり、
その後、尚真王代に第三子尚韶威を派遣し、以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めた。
碑文は三山時代の事績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、
後世の子孫に伝えるための顕彰碑になっている。 」 とある
火神の祠には、第二監守一族の火神が祀られていて、 旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀を現在も行っている。
「 監守が住まなくなって以後、今帰仁城跡は御嶽として、 広く県内からの参拝者が精神的拠り所として訪れたといい、 今帰仁上りの重要な拝所として、今も参詣者が絶えない。 」
城で一番東にある郭は志慶真郭である。
「 発掘調査の結果、建物は約6mX6mあるいは4mX5m程度の規模で、中に炉跡が見つかった。
瓦は出土しないことから、茅か板で屋根を葺いた掘建建造物だったと推定させる。
石垣は地山を削り、自然岩を利用して積み上げる工夫がなされている。 」
所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874
名護バスセンターから本部循環線で約40分「今帰仁城跡入り口」下車、徒歩約15分
今帰仁城のスタンプは今帰仁グスク交流センター(0980-56-4400 8時30分〜17時) にて