日本100名城 (98) 今帰仁城(なきじんじょう)






今帰仁城は10の曲輪を構えた北山王の居城である。

「 今帰仁城は沖縄本島北部の丘陵上に位置する。 
今帰仁城は琉球王国成立(1429年)以前の十四世紀頃、約百年に渡り、本島北部を治めていた北山王の居城跡である。 
中国の史書に、琉球国山北王(はにじ)」、「中山(みん)」、「南山(はんあんち)」の三王が登場する。 
この頃の沖縄本島は、北部地域を北山王、中部地域を中山王、南部地域を南山王が支配した「三山鼎立の時代」であった。 
北山王は、沖縄島の北部を支配下とし、運天港を使って、中国と貿易をしていた。 
今帰仁城の創建は明確ではないが、十三世紀末から十四世紀初めにかけてつくられ、 十四世紀前半頃に、古期石灰岩を利用した石垣が積まれ、 十五世紀前半には城域が拡張され、本丸、大隅、志慶真門など十の郭からなる現在の姿になったと考えられる。 
応永二十三年・永楽十四年(1416)、中山王の尚巴志により滅ぼされ、北山時代は終わった。 
琉球全土を統一しようとした中山王尚氏により、北山王は滅ぼされたが、 中山王は北部地域の管理のため、北山監守を派遣し、今帰仁城は北山監守の居城として利用された。  しかし、慶長十四年(1609)、薩摩軍に攻められて炎上し、廃城になった。 」

今帰仁城跡に入ると左側に見える城壁は外郭である。

「 高さは二メートル前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続いているが、 これが発見されたのは昭和五十年、沖縄海洋博覧会の工事中のことである。  石垣が積まれた箇所が発見され、その後、城郭の一部であることが確認され、 昭和五十四年には国の史跡今帰仁城跡の一部として追加指定された。 」

「古宇利殿内」の説明板のある脇に祠がある。/p>

「 沖縄の方言で古宇利のことをフィということから、フィ殿内と呼ばれている。 
祠は古宇利のある北東の方位を向いていて、今帰仁村唯一の離島である古宇利島の人々が1月8日に遙拝するもので、 平成二十二年にここに移築し、復元された。 」 

城壁に囲まれた中にある入口は今帰仁城の正門の平郎門(へいろうもん)で、 その名称は琉球国由来記に 「 北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス 」 と書かれている。
現在の門は昭和三十七年(1962)に修復されたもので、左右に狭間があり、 門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢なつくりとなっている。 
平郎門を通り抜けて、大庭に向かって左側部分は「大隅」と呼ばれているところで、 面積はかなり広い郭の一つで、城外に抜けられる洞穴もあり、 かつては城兵達の武闘訓練の場だったと想定されるという。 

外郭
     古宇利殿内      平郎門
外郭
古宇利殿内
平郎門



平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをカーザフという。 
ここは一段と低い所で、その両側は切り立った谷底になっていて、 露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったと想像できるが、 現在は大掛かりな工事中だった。 
平郎門から主郭に向ってまっすぐに伸びる七五三形式の石階段は1960年代に整備されたものである。 
本来の登城道は門から城内に向って石階段の右手側にあった。/p>

「 旧道は大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、 敵兵が攻め込んでも大勢の兵が上の郭まで一気に入れない工夫された造りになっていた。 」

平郎門からまっすぐ伸びた七五三形式の階段を登りつめると開けた広場に出る。 
ここは大庭(ウーミヤー)とよばれる政治や宗教儀式が行われたと考えられるところである。 
志慶真乙樽(しげまうとうたる)の歌碑が建っていて、
 「 今帰仁城 しもなりの九年母 志慶真乙樽が ぬきやいはきやい 」 と記されていた。 
大庭の東南川にカラウカーと呼ばれるくぼんだ岩石があり、常時水をたたえている。 
かって、女官たち髪を洗い、水量で吉凶を占ったと伝えられる。 
大庭の北側は北殿跡(ハサギミヤー)と呼ばれ、現在も香炉が設置され、重要な祭祀の場になっているという。  北殿跡の西側にあるツイツギ(城内下の御嶽)は城(ぐすく)ライミの時、ここで祭祀が行われた。  神名はツイツギイシズ御イベとされる。 

カーザフ
     七五三形式の石階段      大庭
カーザフ
七五三形式の石階段
大庭



北殿跡の北側、一段高いところは御内原と呼ばれ、かつて女官部屋があったとされるところである。/p>

「 御内原の隅に自然石が高さ一メートル位の石垣に囲まれた拝所は、 テンチジアマチジ(城内上の御嶽)である。  今帰仁城で一番神聖な場所で、オモロで「今帰仁(みやぎせん)のカナヒヤブ」と謡われたとある。 」

北端からの眺望は城内でも最も開けていて、今帰仁城壁のほぼ全てを望むことができる。 
また、国頭の山並みや離島の伊平屋、伊是名島を眺めることができる。 
大庭の東側にある一段高くなった郭を主郭(俗称本丸)と呼んでいる。/p>

「 主郭には多くの礎石が現存し、一部移動させられた石もあるが、かつての建物の姿が想像できる。 
四年間の発掘調査の結果、十三世紀終わりから十七世紀初めまで、城が機能していたことが分った。 」

火神の祠(ひのかんのほこら)の前には四基の石灯寵と「山北今帰仁城監守来歴碑記」の石碑が建っている。

「 火神の祠は、今帰仁城監守が首里へ引き揚げた1665年頃に設置されたと考えられる。  現在の祠は、戦後に改築したものを城の整備事業に伴い、現在の位置に移築した。 」 
説明板「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)」
「 今帰仁按司十世宣謨が、1749年、首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、 故地を顕彰すべく建立された。 
今帰仁監守は尚巴志が日本暦応永二十三年(1416)に山北王を滅ぼした五年後に第二子尚忠を派遣したことに始まり、 その後、尚真王代に第三子尚韶威を派遣し、以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めた。 
碑文は三山時代の事績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、 後世の子孫に伝えるための顕彰碑になっている。 」 とある 

火神の祠には、第二監守一族の火神が祀られていて、 旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀を現在も行っている。

「 監守が住まなくなって以後、今帰仁城跡は御嶽として、 広く県内からの参拝者が精神的拠り所として訪れたといい、 今帰仁上りの重要な拝所として、今も参詣者が絶えない。 」

城で一番東にある郭は志慶真郭である。 

「 発掘調査の結果、建物は約6mX6mあるいは4mX5m程度の規模で、中に炉跡が見つかった。  瓦は出土しないことから、茅か板で屋根を葺いた掘建建造物だったと推定させる。  石垣は地山を削り、自然岩を利用して積み上げる工夫がなされている。 」

御内原
     主郭      火之神の祠
御内原
主郭(本丸)跡
火之神の祠



所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874   
名護バスセンターから本部循環線で約40分「今帰仁城跡入り口」下車、徒歩約15分  
今帰仁城のスタンプは今帰仁グスク交流センター(0980-56-4400 8時30分〜17時) にて 



 戻る(日本100名城表紙)



かうんたぁ。