日本100名城 (96) 飫肥城(おびじょう)





飫肥城は日向国南部(宮崎県日南市飫肥10−1−2)にあった群郭式の平山城で、 江戸時代には伊東氏飫肥藩の藩庁になっていたところである。
飫肥城へはJR日南線飫肥駅で降り、南西の稲荷下橋を渡り、飫肥本町交叉点を越え、 次の信号交叉点で右折する。 
ここまで約一キロである。  信号交叉点のところが大手門前で、そのまま進むと土産物屋や食事処があり、左手に駐車場がある。 直進すると左右に石垣と土塀が続く。  右側に「交際交流センター小村記念館」の説明板があり、中に入ると正面に伊東祐正家があり、 その奥に小村記念館がある。

 説明板 「旧伊東祐正家住宅」
「 国際交流センター小村記念館を含む屋敷地は、江戸時代の初めは、松岡八郎左衛門、 江戸時代末には川崎宮内が居住していたことが、絵図によって判明している。  いずれも上級家臣である。  明治以降は、藩主であった伊東家の文化が住んだ。  現在の建物は明治初期の火災後に建てられたものであるが、 江戸時代の武家屋敷の様式をよく残している。  当初は茅葺きであったが、昭和28年頃の改造で瓦葺きになるとともに、建物規模の縮小が行われた。  
現在、復元準備を検討している。   日南市教育委員会   」

道に戻ると、左奥に豫章館がある。 

「 豫章館は伊東家家臣の伊東主水の屋敷を明治二年(1869)、 飫肥藩十四代藩主伊東祐帰が移り住んだもので、 主家は明治元年に造られた武家屋敷である。 」

飫肥城は、飫肥市街北部の標高二十メートル〜三十メートルのシラス台地の丘陵に、 西から南に流れる酒谷川を堀として、本丸、中の丸、 松尾の丸などの多くの曲輪を並べた群郭式の平山城である。 
現在の大手門は飫肥杉を用いて再建された、木造二階の楼門である。 

 説明板 「大手門」
「 この大手門は、周辺の石垣遺構や主柱の根石などを検証し、 昭和五十三年(1978)に復元されたものである。  木造渡櫓二階建、屋根までの高さ十二メートル、一階は二十一・六平方メートル、 二階は四十四平方メートルで、門の巾は一階七メートルである。  柱や梁には樹齢百年以上の飫肥杉を使用し、釘は使わない「組み式」である。  屋根は入母屋風で「庵木瓜(いおりもっこう)」の鬼瓦と 「月里九曜紋」の軒瓦はいずれも「伊東家紋」である。   日南市教育委員会  」 

食事処
     伊東祐正家      大手門
食事処伊東祐正家大手門



大手門の手前には石垣で補強された土橋が架かり、手前は内掘跡である。 
大手門の虎口(出入口)は内枡形になっていて、かなり広く、攻めてくる敵兵に備えた鉄砲破間がある。 
突き当たりを左折し、石段を上ると、階段の途中で右に移動して上るように枡形で、 石段の幅は歩きずらくなっている。
石段を上りきると正面は石垣の上に漆喰の瓦屋根が乗った塀が続く。 
その上にあるのは資料館である。

 飫肥城の歴史
「 室町時代末期の長禄二年(1458年)、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、 鎌倉時代から日向の地を支配してきた藤原南家の子孫、伊東氏の南下に備えて、 志布志城主で島津氏の一族である新納忠続(にいろただつぐ)を飫肥城に入城させた。  その後、島津氏一族が城主となったが、伊東氏との間で城をめぐって攻防戦が繰り広げられた。  念願かなって飫肥城を奪取した伊東氏だったが、 木崎原の戦いに負けた伊東氏が日向国を追われ、  日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配となった。  飫肥を失った伊東祐兵は、九州平定に乗り出した羽柴秀吉の家臣となり、天正十五年(1587)、 九州平定軍の先導役を務め上げた功績により、日向国を与えられた。  関ヶ原の戦い後も徳川家康より領地を安堵され、 廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで、一貫して飫肥の地で伊東氏の家名を全うした。  飫肥城は明治六年(1873)にすべての建物が取り壊されたが、  遺構としては本丸、中の丸、松尾の丸、石垣、堀、土塁が残っている。 」

土橋と内掘
     枡形虎口と鉄砲狭間      漆喰塀石垣
土橋と内掘枡形虎口と鉄砲狭間正面の漆喰塀石垣



振り返ると枡形の石段の両側の鉄砲狭間のある塀の裏側が見えた。
枡形を出ると左に曲がり、その先で右折するが、その手前の左側に飫肥杉が群生し、 その下の苔が美しかった。 
右折すると城内側の城壁は石垣だが、外側の石垣の上は土塁である。 
緩やかな石段を上ると、高い飫肥杉が四本生えているが、右に曲がる枡形がある。 

説明板「しあわせ杉」
「 4つの角にある4本の杉 対角線の中心に立つと幸せパワーがもらえます  」

鉄砲狭間のある塀
     飫肥杉と苔      しあわせ杉
鉄砲狭間のある塀飫肥杉と苔しあわせ杉



上りきると枡形になっていて、枡形の入口には城門跡の礎石がある。 
その先の石段の右側に飫肥城歴史資料館がある。 
昭和五十三年に開館した資料館には甲冑、刀剣、武具、女駕籠、古文書など、 飫肥藩によかりのある220点が展示されている。 また、日本100名城のスタンプが置かれている。 
枡形の内部は六段の石段になっていて、本丸の入口部である。 
その先の右手にあるのが日南市立飫肥小学校(藩校振徳堂が前身)で、江戸時代の本丸跡である。
左に行くと石段があり、「松尾の丸」の説明板が立っている。

「 飫肥城復元事業により、昭和五十四年(1979)に、江戸時代初期の書院御殿として、 在来工法を使用して建築された。  建物は延床面積約八百平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など二十室以上の部屋がある。涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。  建物の設計、監修は豊後岡城や京都二条城を参考に故藤岡通夫博士が行った。  本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、 財団法人日本船舶振興会(現日本財団)から多額の助成を受けた。 」 

本丸入口枡形
     本丸跡(飫肥小学校)      松尾丸下
本丸入口枡形(奥)歴史資料館本丸跡(飫肥小学校)松尾丸説明板



少し高いところにあるのは松尾丸御殿である。 
松尾の丸御殿は、当時の資料が残っていないため、正式には復元とはいえないようであるが、 立派なものである。 
松尾丸の裏側は郭の周囲を囲むように高い土塁があり、独立した曲輪であった。 
松尾の丸には苔むした石垣が残り、飫肥杉の木立とも相まって独特の風情をかもし出している。 
三叉路に戻り、右に行くと本丸跡の小学校があるが、立ち入り禁止なので、 その前を通り過ぎると、左側は高い土塁である。 
その先に石段があり、石段の先は「いやしの森」と名付けられたところで、旧本丸である。

 説明板 「史跡 飫肥城 旧本丸」
「 飫肥城は東西約七百五十メートル、南北約五百メートルの城域に大小十三の曲輪と犬馬場など からなる広大な城である。 各曲輪はシラス大地を空掘で区切った壮大な規模で、 南九州の中世城郭において特徴的な形態である。  戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正十五年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が 豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられ以降、明治時代まで伊東氏の居城となった。  城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。  このうち、元禄六年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グランド)が完成するまでは、 旧本丸が藩主の御殿であった。 旧本丸は寛文二年(1662)、延宝八年(1680)、 貞享元年(1686)の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。 」 

松尾丸御殿
     松尾丸の裏側      旧本丸跡
松尾丸御殿松尾丸の裏側石段の上が旧本丸跡



旧本丸入口は堅固な虎口になっていて、城門を支えていたと思われる礎石が入口にある。 
本丸虎口の石垣は切込ハギである。
左折すると旧本丸で、かなり広い。 
旧本丸には礎石のような形跡があったが、周囲には飫肥杉が植えられていた。 
旧本丸は東と北に入口があり、北門は立派な土塀付きの薬医門である。 

旧本丸虎口
     旧本丸跡      薬医門
旧本丸虎口旧本丸跡北門・薬医門



本丸の北側には北の丸、西の丸などの曲輪があったが、 現在はグランドとして削平されたり、住宅地や山林になっている。 
歴史資料館に戻るが、本丸跡を始め城内には飫肥杉が立ち並ぶ。 
歴史資料館の脇の道を進み、両脇に白漆喰の塀のある石段を降りる。 
その先は犬馬場跡である。  左側は本丸跡で、左側の石垣の隅を曲っていくと小学校の入口になっていた。 
犬馬場はかなり広い広場になっていて、「車両進入禁止」の看板がある。 
犬馬場の周囲には土塁が巡っていて、その下に大手門からの空掘が続いている。 

グランド(北の丸跡)
     白漆喰の塀の道      犬馬場跡
グランド(北の丸跡)白漆喰の塀のある石段犬馬場跡



大手門を出て、左折し、大手門沿いの空堀に沿って歩く。
「日南市飫肥伝統的建物群保存地区」の説明板がある。

 説明板「日南市飫肥伝統的建物群保存地区」
「 飫肥城下は飫肥藩五万一千石の城下として、明治時代から昭和三十年にかけても、 南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。  城下の形成は、天正十五年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が、 豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。 
現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。 
城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西八百五十メートル、南北九百メートルの範囲で、 南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。  各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生け垣に囲まれ、様式に応じた門を設けている。  屋敷地の広さは上級家臣の二千坪から下級家臣でも、二百六十坪くらいまで、さまざまである。 
昭和五十二年(1977)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、 九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。  保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約十九・八ヘクタールである。 」

横馬場通りには小村寿太郎の生家がある。

「 小村寿太郎は、飫肥出身の明治の外交官である。 
二十世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 
また、不平等条約を改正し、関税自主権獲得、その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。  」

城下町時代のままの道の両側は生垣の塀が続く。
道路や地割が良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれた武家屋敷跡が残っている。 
その先の三叉路に出る角には「武家屋敷通り」の看板がある。

「 明治維新の廃藩置県に伴い藩士は俸禄を失い、屋敷を離れた者も多かった。  ここの馬場通りは飫肥藩士屋敷の典型的な姿を色濃く留めている。  それは、傾斜地のため屋敷囲いに石垣をめぐらしているので、原型は余り崩れていない。  また、屋敷規模も広く、一戸平均九百坪で広い。 昭和五十二年五月「重要伝統的建造物群保存地区」 として国の指定を受けた。 日南市観光協会 」 

この角の家の下に「 有形文化財 旧伊東伝左衛門家」の標柱が立っている。

「 旧伊東伝左衛門家は、飫肥藩の上級家臣の典型的な住居である。  屋敷地の南面と東面は高さ二メートルの切り石の石垣が積まれ、 八幡馬場通りに面した入口は石段になっている。  建物は十九世紀中頃までに建てられたと推定されている。  建築材には飫肥杉を使い、床下を高くするとともに、南面に廊下を巡らすなど、 後に飫肥の住宅に見られる特徴をすべて備えている。  なお、屋根はもともと茅葺きで、下屋根だけが飫肥瓦葺きであった。  建物の南には武家屋敷に典型的な枯山水の庭がつくられており、 外周の石垣、建物とともに飫肥藩の上級家臣の生活を知る上で重要な屋敷である。  伊東伝左衛門家は、享保六年(1721)に家老伊東祐従の次男祐充が分家したのがはじまりで、 家禄は当初一〇〇石だったが、後に一五〇石まで加増されている。  昭和五十九年(1984)、日南信用金庫から日南市に寄付された。 」 

小村寿太郎の生家
     武家屋敷通り      旧伊東伝左衛門家住宅
小村寿太郎の生家武家屋敷通り旧伊東伝左衛門家住宅



所在地:宮崎県日南市飫肥10−1−2  
JR日南線飫肥(おび)駅から徒歩約15分 
飫肥城のスタンプは飫肥城歴史資料館で 
 (宮崎県日南市飫肥10−1−2 0987−25−4533 9時〜16時30分 12/29-12/31は休館)



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かうんたぁ。