日本100名城 (95) 岡城(おかじょう)






岡城は断崖絶壁を巧みに生かして構築された要塞のような城である。

「 岡城は、豊後国直入郡竹田(大分県竹田市)にある標高三百二十五メートル、 比高九十五メートルの天神山に築かれた山城である。  臥牛城(がぎゅうじょう)や豊後竹田城とも呼ばれた。 
文治元年(1185)に緒方氏が築いたのが最初だと伝えられ、南北朝時代の元徳三年(1331)、後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族 の志賀貞朝が城を拡張し、岡城と名付けたとされる。 
文禄三年(1594)、播磨国三木から入った中川秀成が三年がかりで大規模な修築を施し、現在残る高石垣を多用した近世城郭に変えた。 
岡城は明治維新の廃城令により、明治四年(1871)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、石垣も崩れ荒廃していった。
地元出身の瀧廉太郎の荒城の月は荒廃した岡城がイメージになっているといわれる。 
昭和九年(1934)に公園になり、昭和十一年(1936に国の史跡に指定された。 
昭和に入り、石垣の修復などが行われ、現在の姿になった 」

大手口から大手門へ至る登り通路は、石段の崖側に石塀を設けていて、その頂部にかまぼこ石という扇形の石が置かれている。 
大手門は志賀氏時代の東向きの下原門を西向きに改めている。 今は礎石と櫓台が残るだけだが、大きな楼門が建っていたと想像できる。 
岡城は大手門の先、左手に西の丸、近戸門、真直ぐ進むと三の丸、二の丸、本丸という配置になっていた。 
三の丸に入る西中仕切の左側(三の丸北側)には岩盤の上に城内でも最も高い高い石垣がそびえ立っている。 

「岡城跡」の石柱とかまぼこ石
     大手門跡      三の丸高石垣
「岡城跡」の石柱とかまぼこ石
大手門跡
三の丸高石垣



西中仕切は貫木門と太鼓櫓門からなる枡形虎口である。 
太鼓櫓門をくぐると、左側に藩主専用の幅二メートルの御成り門があり、それを通ると三の丸屋敷の正面玄関に出た。  通用門は左側の幅六メートルの石段を上がる門だった。 
三の丸には使者の間、小姓の詰所などと三十畳の広間があり、藩主の執務が中心的に行われた曲輪だったようである。 
明和八年(1771)に本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きて、三の丸屋敷の跡には武具庫が建てられた。 
三の丸の右正面にある石垣は本丸の石垣で、本丸の北西部には天守の代用となる小三階櫓が建っていた。 

太鼓櫓門跡
     三の丸跡      本丸石垣
太鼓櫓門跡
三の丸跡
本丸御三階櫓台の石垣



本丸石段の左奥には二の丸があり、数寄屋、月見櫓、風呂屋があった。 
ニの丸は遊興などを目的とした施設がある曲輪だったが、現在は休憩所と風呂屋を再現した設備がある。 
「二の丸跡」の標柱の左手に「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎の銅像が建っている。 
本丸は天守にあたる三重櫓や御鐘倉のほか、藩主の居住を中心とした殿舎で構成されていた。  今は天満神社と土井晩翠の詩碑があるだけである。 
三代藩主、中川久清は隠居後の居宅として、西側の重臣団屋敷を接収し、西の丸を築き西の丸御殿を造った。

「 元禄二年(1689)以後には、公式行事などが行われるようになる。 藩主の居住所または藩政の執務に使われるようになった。  江戸後期には、西の丸が藩政の中心的場所になった。 今は「西の丸御殿跡」の石柱が建っているだけである。 」

晴れた見通しのいい日は城山から祖母山、傾山、阿蘇山、および九重連山を望むことができる。 
平成二年(199)には岡城公園として、日本さくら名所100選に選定された。

ニの丸跡
     本丸跡      西の丸跡
ニの丸跡
本丸跡
西の丸跡



岡城の詳細(訪問記)は、 古城めぐり「岡城」にあるので、ご覧ください。

所在地:大分県竹田市竹田2889    
JR豊肥本線豊後竹田駅からタクシーで5分で、観覧料徴収所に到着、徴収所から徒歩約20分で本丸跡 
岡城のスタンプは観覧料徴収所( 0974-63-1541 9時〜17時)にて 



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かうんたぁ。