日本100名城 (94) 大分府内城(おおいたふないじょう)
大分府内城は、豊後国府内にあった梯郭式平城で、豊後の海川を取り入れた堅固な縄張をもつ城である。
別称は荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)。
府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことによる。
「 慶長二年(1597)、臼杵より十二万石で入封した豊臣秀吉の家臣、福原直高が、
大分川河口付近に築城を開始、同四年(1599)に望楼式型の四重天守が築かれた。
当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでいて、この地は荷落と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を荷揚に改め、名を荷揚城とした、といわれる。
関ヶ原の戦い後、竹中重利(たけなかしげとし)が創建当初の天守を新式の層塔型へと改めるなどの大改修を行った。
北方は海、東方は大分川に面した縄張りで、北東隅に本丸を配し、二の丸として東之丸と西之丸を配し、山里丸(北之丸)が梯郭式に配された。
更に、武家屋敷群の三之丸が北西から南東に大きく広がり、本丸等の曲輪を囲み、内内堀、内掘、外掘により、
それぞれの曲輪は水堀で仕切られ、渡櫓や廊下橋で連結されていた。
寛保三年(1743)に、城下からの出火により、天守他、多くの建物が焼失、以後、天守は再建されなかった。
明治維新の廃城令で、本丸、東之丸、西之丸の建造物以外は破却され、内内堀、外堀は埋め立てられ、
本丸と東之丸、西之丸が一つの土地になり、先程までは大分文化会館が建っていたが、今は更地になり、
一部が駐車場になっている。 」
大分城址公園の北中央部に残る天守台は古式な野面積によるもので、織豊時代の工法が使われていたと思われる。
内掘に面した西之丸に復元させた西南隅櫓があるが、櫓台石垣は打込ハギ、隅部は算木積みであり、
天守台と造られた時代が違うことが分かる。
東の丸西南隅櫓は「着到櫓」と称されていた櫓で、白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落とし
を持っていて、層塔型で地階(地下)を持っているため、二重櫓は城内から三重に見えた。
明治維新後も残っていた数少ない建物であったが、戦災によって消滅してしまった。
現在の建物は昭和四十年に再建されたものである。
大手門の正式な名称は多聞櫓門(たもんやぐらもん)で、切妻造の櫓門であった。
昭和二十年(1945)の大分空襲で焼失し、昭和四十年(1965)に復元された。
江戸時代、内掘に架かっていたのは廊下橋だったが、今は土橋に変ってしまっている。
西之丸と山里丸(北之丸)を結ぶ屋根付きの橋は廊下橋で、平成七年に再建された。 なお、城内には
ここの他、大手門のある大手口と東之丸から本丸に渡る三ヶ所に設置された、とある。
人質櫓は本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に位置し、文久元年(1861)に再建されたもので、
府内城に残る史跡として大分県の史跡に指定された。
宗門櫓は城の南側の大手門のやや西に位置し、城外からは石垣の上に建つ平櫓に見えるが、城内からは二重櫓に見える。
江戸時代には櫓から北側に延びる石垣が出合曲輪と西之丸を仕切っていて、
大手門は喰い違い虎口になっていて、ここは城の出入口の一部をなす防衛上重要な施設であった。
安政元年(1854)の安政大地震で倒壊し、現在の建物は安政六年(1859)に再建されたもので、
府内城に残る史跡として大分県の史跡に指定された。
大分府内城の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「大分府内城」にあるので、ご覧ください。
所在地:大分県大分市荷揚町73・75他 大分城址公園
JR日豊線大分駅から徒歩で約15分
大分駅からバスで約5分、市役所前下車
大分府内城のスタンプは廊下橋か大手門にて
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