日本100名城 (93) 人吉城(ひとよしじょう)





球磨川に架かる水の手橋の南東が人吉城の跡地で、 人吉城公園として整備され、昭和三十六年(1961)に国の史跡に指定された。  
下図は球磨川に架かる水の手橋の右側の外曲輪の御下門から本丸に至る城跡図である。 

説明パネル「 史跡 人吉城」
「 人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県)出身で人吉荘の地頭となった 相良長頼(さがらながより)が、建久九年(1198)城主となり、翌年より修築したと伝えられています。 その修築の時、三日月の文様がある石が出土したので、 別名を三日月城あるいは繊月城(せんげつじょう)とも言います。 
人吉城が史料に初めて出るのは、大永4年(1524)のことです。  この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、 素堀りの空堀屋や堀切によって守られていた城でした。  室町時代に球磨地方を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、 戦国大名として発展します。 しかし、 天正十五年(1587)の羽柴秀吉の九州征服により、球磨地方のみを支配することになり、 以後は石高22,165石の人吉藩として、明治4年(1881)の廃藩置県ませ存続しました。 
人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは、 天正十七年(1589)からで、何度か中断しながらも、51年後の寛永16年(1639)に 現在に見られる石垣が完成しています。 
球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。  大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、 広大です。 本丸には天守閣が建てられずに二階建ての護摩堂が建てられ、 二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。  城の周囲の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。  水の手門近くの「武者返し」と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である 槹出(はねだし)工法で築かれたものとして有名です。  城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、 保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。 
 平成4年3月 人吉市教育委員会     」

人吉城見取り図
人吉城見取り図



水の手橋を渡るとその先は人吉城の跡地で、 道の右側にはふるさと歴史広場と人吉城歴史館などがある。 
まず、上の地図にある外曲輪の御下門から本丸を目指す。 
御下門に向うため左折するが、正面にある石垣が寅助火事で御館が焼失したあとに完成させた 武者返しが付いた城壁で、その先にある堀合門は復元されたもので、 本物は市内に移築されて残って いる。 その先には「史跡 人吉城跡」の標柱がある。 

「 堀合門は、藩主が住む御館の北側にあった表門で、文久2年(1862)の「寅助火事」でも焼けずに残った人吉城唯一の現存する建造物である。  明治4年(1871)の廃藩置県以後に、人吉城は払い下げになり、城外の士族・新宮家(土手町)に移築され、市の有形文化財に指定されている。  現在の門は資料に基づき復元されたもので、形式的には棟門と呼ばれるもの、化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の曲線が特徴的である。 
石垣(城壁)の上には、長櫓があり、城を守ってきたが、文久二年(1862)の大火で焼失が、 櫓は造られず、石垣を高くして、その上端に「武者返し」という突出部をつけた。  この工法は、西洋の築城技術で、嘉永六年(1850)に江戸の品川台場で初めて導入され、 五稜郭や長野の龍岡城などの西洋式城郭で採用されているが、 旧来の城郭に採用されたのはこの城のみである。 」

その先の左手に両側が石垣で真中は開き、球磨川に出られるようになっているところがある。  これは「水の手門跡」である。 また、その先には礎石群があり、「大村米御蔵跡・欠米蔵跡」の 説明板がある。 

「 慶長十二年(1607)から球磨川沿いに石垣工事が始まり、外曲輪がつくられたが、 水運を利用するてため、川に面した石垣には七ヶ所の船着き場が造られ、 その中で最大だったのが「水の手門」である。 
門の内側に番所と船蔵があり、近くに大村米蔵や欠米蔵があり、球磨川の水運を利用して、 この門から年貢米が城内に運び込まれていた。 」

城跡碑・堀合門・石垣
     水の手門跡     大村米御蔵跡・欠米蔵跡
城跡碑・堀合門・武者返しのある石垣
水の手門跡
大村米御蔵跡・欠米蔵跡



御下門は外曲輪から本丸・二の丸・三の丸への登城門である。 

「 御下門は「下の御門」とも呼ばれ、大手門と同じ、櫓門形式の門で、 三段の石垣の中央に、梁間二間半(5m)、桁行十間(20m)の櫓が乗り、 その中央下方の三間分を門としていた。  門扉を停める地面にには石組が残っている。  また、門を入った奥に出入りを監視する門番所があった。 」

御下門跡の右手に「犬童球渓(いんどうきゅうけい)の顕彰碑」があり、 故郷の廃家の歌詞が刻まれた石碑がある。 

「 犬童球渓は人吉市生まれの教師で音楽家。  「故郷の廃家」「旅愁」は、旧制新潟高等女学校在職中に、 ふるさと人吉をしのんで、作詞されたものといわれる。  最後は地元の旧制人吉高等女学校で教職にあたった。 」

坂はけっこう急ですべりやすい。 カーブしながら進むと、御中門だった石垣が現れる。 

「 古絵図によると、正面中央左側の石段の上から、 右側の二の丸本体の石垣の上まで架かる、巨大な櫓門があったことが分かる。
本丸・二の丸の北東に位置する御中門は、櫓門形式の梁間二・五間、桁行九・五間あり、 見張りのために番所が置かれた。 」

御下門跡
     犬童球渓顕彰碑     御中門跡石垣
御下門跡
犬童球渓顕彰碑
御中門跡



御中門は正面に石垣があり、虎口(出入口)からは二の丸は見通せないようになっている。 
突き当たりの石垣で右折すると、スペースがあり、ここに番所があったようである。 
虎口の枡形の石垣を出ると、杉林になっている二の丸跡に出た。 
二の丸はこのあと、見学することにして、直進すると石段がある。 

御中門虎口
     二の丸跡     本丸への石段
御中門虎口石段
二の丸跡
本丸への石段



本丸跡には、護摩堂跡を示す礎石群と東屋があるだけである。 

「 本丸は、江戸時代の初めまでは高御城と呼ばれていた。  地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、 寛永三年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、 山伏番所があるだけであった。  中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていたのだろう。 」

二の丸へ下り、杉林の中をくぐると、「二の丸跡」の標柱がある。 

「 二の丸は、江戸時代の初めは本城(本丸)と呼ばれていた。 
周囲の石垣の上には、瓦を張り付けた土塀が立ち、二の丸御殿として、六棟の建物が建っていた。  享保四年(1719)の「高城二ノ丸御指図」によると、北面を正面に、御広間、御金ノ間、 御次ノ間という接客・儀式用の表向建物と奥方御居間、御上台所、下台所の奥向の建物があり、 これらの建物は、すべて板葺きの建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、 建物の間には中庭が作られている。  この内、金の間は、襖などに金箔が張られていた書院造の建物で、 城主が生活・接客する御殿の中心となる建物だった。 」

上記のほかに、十三間蔵(2間X13間)と井戸があったが、 今は杉林でそれらがどこにあったか、確認できなかった。 
二の丸から三の丸へ下りていく。 江戸時代には埋御門になっていたところである。 

「 北側に、御殿から三の丸へ下りる「埋御門」が土塀の下に造られていた。 」

本丸跡
     二の丸跡     埋御門
本丸跡
二の丸跡
埋御門跡



下に三の丸の曲輪の一部が見えた。 

「 三の丸は大きく見ると、三つに分かれていた。  一つは御中門の東側にあった曲輪で、ここには建物は建てられず、 戦時の軍寄せ場のようになっていた広場であった。 
二つ目は二の丸の北側と御中門の西側に広がっていた曲輪である。 
もう一つは二の丸の西側に広がっている曲輪である。 」

二の丸から下を見ると、門の跡の石垣が見えるが、 三の丸の北東にある曲輪を除いた部分である。 
埋御門の階段を降りたあたりは、北曲輪の東部分で、冒頭の地図によれば 中御門の近くに、井戸があったようである(夏の日照りで草叢になっていたので、確認はできなかったが、)。 
二の丸石垣の端を左折して短い石段を上ると、南西曲輪跡で、 曲輪の外側に竹を編んだ柵を張り巡らしているが、建物は一切なく、 二の丸石垣からの排水溝の下にある「二の丸跡」の石柱があるだけの広大な芝生広場になっている。

「 江戸時代には、北側の北曲輪西部との間の石垣付近に、 二軒の塩蔵を配置されていた。  崖側には当初から石垣は造られずに、自然の崖を城壁としていて、 「竹茂かり垣」と呼ばれる、竹を植えた垣で防御していた。  人吉城はシラス台地にきずかれており、崖の崩壊を防ぐという目的もあった。 」
 

三の丸跡
     北東曲輪     三の丸南西曲輪
二の丸から三の丸を見る
三の丸北東曲輪
三の丸南西曲輪跡



南西曲輪の北側の北曲輪西部とは高度差があり、南西曲輪側が低い石垣で区分している。 
北曲輪の西部には、現在、東屋があり、北側の崖側に「於津賀社跡」を示す礎石群がある。   

「 江戸時代、この曲輪には於津賀社が祀られていた。
相良家初代、長頼が入国した時の人吉城主は、平氏の代官の矢瀬主馬佑であった。  相良長頼が彼をだまし討ちにしたため、主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、 亡霊となって祟ったため、相良氏2代頼親は津賀を祀る霊社を建立した。  初めの頃は御墓(塚)大明神といわれた。  文化十八年(1840)に再興され、元和年間(1620年頃)に「於津賀社」と改め、 寛永七年(1630)に造替られた。  社殿は南向きで、板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の二棟があった。 」 

ここは市内中央部を流れる球磨川の南側に位置していて、球磨川に架かる水の手橋とその先の 市街地が一望できる場所である。 

南西曲輪石垣
     於津賀社跡     水の手橋周囲
南西曲輪石垣(奥)二の丸石垣
於津賀社跡
水の手橋周囲



三の丸から下に降りると、御館庭園のあるところに出た。 
なお、下りてきた道は、江戸時代にはなかったという。 
今は「本丸 二の丸 三の丸→」の道標もある、城めぐりのメインルートである。 
下りて来た所一帯に、江戸時代には藩主の居館と庭があった。 
明治に入り、人吉城の建造物は払い下げになり、すべて撤去された。 
館跡には明治十二年、人吉護国神社(人吉神社)が建立された。 

「 御館跡庭園は、天和三年(1683)に、城主相良氏が山頂の二の丸から 居宅をここに移し、藩政の中枢となったところである。  公的な接客・饗応を行った表玄関の南端には、玄関のついた大広間があり、 この庭園を眺望できるようになっていた。  霞みがたなびくような中島を浮かべる池と優美な稜線を重ねる築山群による雅やかな空間の中に、 立石群からなる力強い滝石組を要に、三様を見せる石橋を見所として配する池泉式回遊式庭園である。 」

鳥居のところにきて、振りかえり、社殿に参拝。 
石橋を渡ると、「御館入口」の説明板があった。 

「 御館は代々の城主が居住していた所で、南を正門入口とする。  前には溜池があり、多脚式の石橋を渡った所に、本御門が建ち、 その内側右手に門番所を置いて出入りの監視をしていた。  石橋は、明和3年(1766)に山田村の石材を切り出し、領内各村に割当をして運搬させ、 建設されたが、各村民は作業割当日の翌日に交代で踊りを披露している。 」 

観光ルート
     御館跡庭園     相良神社鳥居
観光ルート
御館跡庭園
相良神社鳥居



橋は蓮池に架かっていて、橋を渡った対面に日蓮宗の林鹿寺があり、 勝海舟の書があるという。 
相良神社の西、道を隔てた先の広大な広場は、人吉城の西外曲輪で、重臣達の住居地になっていた。 
今は、観光駐車場や「ふるさと歴史の広場」や「人吉城歴史館」などの施設が広大な敷地の一角に 建っている。 
ふるさと歴史の広場の一角には「大井戸」の遺跡があり、 人吉城歴史館は、相良清兵衛屋敷跡である。 

「 人吉城歴史館は平成十七年(2005)に開館した施設で、日本100名城のスタンプが 置かれている。 
また、人吉城の立体模型や相良家の資料などが展示され、石積みの地下室遺構が復元展示されている。 」

その前の芝生の一角にある礎石群は、重臣の一人、家老の渋谷家の屋敷跡である。 

「 城の正面である大手門周辺は城の防衛にとって重要な場所であるので、 監視のための番所を置き、重臣の屋敷を配置して戦時に備えた。 
この場所は寛永十六年(1639)の絵図では、西然太郎屋敷と下台所屋敷であったが、 翌年の御下の乱(おしものらん)によって焼失。  その後、天保期(1830-1844)の絵図では、家老の渋谷三郎左衛門(150石)屋敷となっている。  渋谷家は鍵形の母屋を中心に、土蔵、泉水、井戸などを配し、 屋敷の周りには塀をめぐらしていた。  母屋は約八十坪(262u)で、 台所、広間、座敷、寝間などの五部屋と 台所隅に食糧貯蔵用の穴倉があった。  また、屋敷の北西部には、塀で囲まれる木屋(小屋)の掘立柱建物(2間X4間)があった。 」

球磨川と支流の胸川が合流するところには平成元年(1989)に復元された隅櫓(角櫓)がある。 

「 隅櫓は、胸川が球磨川に合流する人吉城の北西隅の要所に建てられた櫓である。 
元は藩の重臣の相良清兵衛頼兄の屋敷地であったが、寛永十七年(1640)の御下の乱で屋敷は焼け、 その直後に隅櫓が建てられた。  幕末には漆蔵として使用され、文久二年(1862)の寅助火災でも焼失しなかったが、 明治維新により、他の建造物とともに払い下げ、撤去された。 
隅櫓は瓦葺きの入母屋造り、梁間三間半(7m)、桁行十一間(22m)。  壁は上部は漆喰塗り、下部は板張り、内部は廊下があり、三部屋に分かれている。 」

隅櫓の前方にある礎石群は、軍役蔵跡・買物所跡である。 

「 角櫓の南に位置するこの場所は、絵図面にある軍役蔵と買物所の一部にあたる。 
発掘調査の際、両施設を区画すると考えられる南北方向の溝をはさみ、 西側の軍役蔵の敷地内には蔵が三棟が南北に立ち並び、 南端には防火用水とみられる溜枡二基があった。  また、東側の買物所の敷地北西部には蔵が一棟建てられていた。  これらの蔵の構造は土塀え漆喰塗りの土蔵風建物であったと考えられている。 」


相良神社の蓮池と神橋
     人吉城歴史館と渋谷家跡     隅櫓と軍役蔵跡・買物所跡
相良神社の蓮池と神橋
人吉城歴史館と渋谷家跡
隅櫓と軍役蔵跡・買物所跡



隅櫓の右手には御下の乱の供養碑が立っていた。 

「 寛永十六年(1639)、当時の城主・相良頼寛は父・長毎(ながつね)の遺言により、 専横を極めていた家老の相良(犬童)清兵衛頼兄(よりもり)を幕府に訴えました。  翌年、清兵衛は津軽藩お預けの処分を下られますが、 これを不服とした清兵衛の養子・半兵衛らは反乱を起します(御下の乱)  犠牲になった半兵衛方百二十一人を供養するため、この碑を建てられました。 」

隅櫓より胸川に沿って平成五年(1993)に復元されたのは、 続塀(長塀)と大手門脇多聞櫓(多門櫓)である。 

「 球磨川と胸川に面した石垣上には、要所に櫓が築かれ、櫓や門の間には塀が立てられた。 
宝永四年(1707)の大地震で塀の一部が損壊すると、外側の下部には腰瓦が張られた。  また、塀の一部には石落しのための突き出し部があった。 
石塁上に建つ細長い櫓は多門櫓で、 城の正面入口・大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。 
大手門櫓や角櫓と同じ、江戸時代前期の1640年代の建てられ、 宝永四年(1707)の大地震で傾いたので修理されている。  幕末には「代物蔵」として使用され、寅助火事でも焼失せず、 廃藩置県後の払い下げで撤去された。 
建物は石塁に合わせて鍵形となっていて、梁間二間(4m)、桁行二十五間(50m)、 瓦葺きの入母屋造りの建物である。  壁は上部を漆喰塗りとして窓をつけ、 下部は板張りとしている。 」

多聞櫓の隣にあったのが大手門である。 今は石垣だけが残っている。 

「 胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所であったので、 石垣の上に櫓をわたして、その下に門が設けられた。 
大手門櫓は正保年頃(1644〜1648)に建てられ、享保五年(1730)に造り替えられたが、 明治初期の払い下げにより撤去されてしまった。 」

御下の乱供養碑
     長塀と多聞櫓     大手門跡
御下の乱供養碑
長塀と多聞櫓
大手門跡



大手門の櫓台(石垣)の脇には雁木があった。 

「 大手門の南側には、櫓台から胸川に対し、石垣を堤防状に築き、 雁木(城壁にのぼるために設けられた石段) を用いて、 多くの城兵が一度に門脇の塀裏に駈け上がれるように工夫されていた。  現在は、横に長く雁木が続いているが、十八世紀後半に描かれたとされる「人吉城大絵図」には、 大手門の櫓台から続くコの字構造の塀が太字で描かれている。  発掘調査により、絵図と同じように、長さ一メートルの巨石が列をなしていることが確認され、 コの字構造の塀の基礎と推定している。 」 と、人吉市教育委員会の作った説明板にあった。

大手門に架かる大手門橋は昭和初期まで残っていたという。 
説明板にあった写真には大手門があるので、明治初期に写したものだろう。 

「 大手門は、城の正面入口となる重要な場所にあるため、 門の上に矢倉(櫓)を造り、その櫓を鍵形の通路にして、これに橋を架けていた。 
櫓は、間口二十四メートル、奥行五メートルの建物で、 切妻型の瓦葺きの屋根に、壁は上部は漆喰塗り、下部は板張となっていた、という。 」

小生の旅は、八年前に船橋市に引っ越して、佐倉城を訪問したのを契機として始まったが、 人吉城のスタンプが99城目である。 残すは熊本城だけ。 

櫓台と雁木
     大手門橋と多聞櫓     人吉城のスタンプ
雁木と大手門櫓台
ありし日の大手門橋と多聞櫓
人吉城のスタンプ



所在地:熊本県人吉市麓町  
JR肥薩線人吉駅から徒歩約10分   
熊本市から高速バスでJR人吉駅まで、1時間30分
鹿児島空港より人吉直行高速バスで1時間
人吉城のスタンプは人吉城歴史館(0966-22-2324 9時〜17時第月休、112/29-1/3休)にて  



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かうんたぁ。