日本100名城 (92) 熊本城(くまもとじょう)
熊本城は、天正十六年(1588)に肥後半国を与えられた加藤清正が
千葉城や隈本城のあった茶臼山一帯に築城を始め、慶長十二年(1607)に完成させた平山城である。
加藤氏の改易後は、熊本藩細川氏の居城で、明治維新を迎えた。
明治十年の西南の役の直前に大小天守や本丸御殿など、本丸の建造物が焼失したが、
宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀は残り、十三棟が国の重要文化財に指定されている。
また、城跡は国の特別史跡に指定されている。
平成二十八年(2016)の熊本地震で大きな被害を受け、現在、再建に努力されている。
最高所にある本丸の大天守や小天守は昭和三十五年(1960)に再建されたものである。
熊本地震で被害を受けたが、令和三年(2021)修理が終了し、特別公開が行われている。
「 天守は、連結式望楼型、大天守は三重六階地下一階、
小天守は三重四階地下一階である。
大天守は一般に五重の天守と見られているが、二重と四重にあたる部分が屋根でなく、
庇とするので、正式には三重六階地下一階の天守となる。
天守台から少し張出す「張出造」で、張出し部分には石落しが設けられていた。
付櫓は元は階段櫓で、そのまま、多聞櫓が本丸御殿へ繋がっていた。 」
本丸御殿は明治の火災で焼失したが、平成十九年(2007)に築城四百年に際し、
再建されたものである。
宇土櫓は「三の天守」と呼ばれる五階櫓で、
熊本城には三重天守に匹敵する五階櫓が五基もあった。
「 宇土櫓(うどやぐら)は、江戸時代から熊本城に残る唯一の五階櫓で、
国の重要文化財に指定されている。
地上五階、地下一階、
建物の高さは19m、土台石垣の高さは21m以上と大天守に次ぐ大きさである。
近世以降に建造された天守や櫓の比較では、姫路城、松本城、松江城に次ぐ、四番目の高さである。破風はむくりを持ち、最上階に外廻縁を持つ。
宇土城の天守を移築したと伝えられるが、現在、この説は否定されている。
平成二十八年(2016)の地震では、南に続く続き櫓が倒壊し、五階櫓の漆喰壁・床などが破損した。
また、土台石垣も大きく膨らんだ箇所がある。 」
飯田丸五階櫓は、飯田丸の南西隅にあった櫓である。
「 飯田丸一帯は、加藤清正の家臣で、築城の名手といわれた飯田覚兵衛(かくべい) が築いたと伝えられ、その南西角に五階建ての櫓が建てられた。
明治時代に軍により、撤去されたが、 平成十七年(2005)に木造で復元された。
櫓台の石垣は二段に分かれており、かっては一段目にL字状の要人櫓を配し、
立体的に攻撃できるようになっていた。 」
未申櫓は、西出丸南西にあった三階櫓である。
「 未申櫓(ひつじさるやぐら)の構造は、戌亥櫓と同一で、
同時期に建設されたものと思われる。
鎮西鎮台が城内に入った後、司令であった桐野利秋の指示により、
西出丸は石垣ごとに取り壊され、未申櫓も破却された。
平成十五年(2003)に木造で再建された。 」
戌亥櫓は西出丸北西にあった三階櫓である。
「 戌亥櫓の構造は、戌亥櫓と同一で、
同時期に建設されたものと思われる。
安永八年(1779)に修復が行われた際、棟札に慶長七年(1602)完成、
当時の名称は「大黒矢倉」と記載されていたという記録が残る。
鎮西鎮台が城内に入った後、司令であった桐野利秋の指示により、
西出丸は石垣ごとに取り壊され、戌亥櫓も破却された。
平成十五年(2003)に木造で再建された。」
長塀は熊本城の南に流れる坪井川に沿うように続く塀である。
「 東の平御櫓から西の馬具櫓まで続く、二百四十二メートル余の長い塀である。
白壁と桟瓦と黒い下見板で構成され、コントラストが美しい。
平成二十八年(2016)の熊本地震では、長塀の東側八十メートルが内側に斃れる被害があった。
平御櫓は天守の北東を守る一階建ての櫓で、石落しなどの防衛機能を備えている。
高さ約十八メートルの石垣の上に建ち、石垣の東脇を通る坂道は、
不開門に通じている。
平成二十八年(2016)の熊本地震では、土台石垣が大きく膨らみ、地盤沈下などにより、
建物が損傷した。 」
熊本城の訪問記は、
古城めぐり 熊本の城1「熊本城」を、ご覧ください。
所在地:熊本市本丸1−1
JR鹿児島本線・九州新幹線熊本駅から熊本市電で約10分「熊本城前」下車、徒歩約10分
熊本城のスタンプは二の丸休憩所(二の丸駐車場内)に置かれている。
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