日本100名城 (89) 佐賀城(さがじょう)




佐賀城は慶長十三年(1608)、 戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂、勝茂父子が拡張して築造した城である。 
佐賀城は平野の中にあり、八反井樋と今宿江をせき止めれば、天守と本丸の一部を除き、 城下を始め、全体が湖水化する設計になっていた。 
佐賀城は別名、「沈み城」と呼ばれるのは城が水面に沈むからという説と 城下を少し遠ざかると楠や松の木に城がかくれて見られなくなることからという説がある。 

「 佐賀城は四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城で、 城内には本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、旧龍造寺家家臣たちの屋敷地も配されていた。 
内堀の巾は八十メートルにも及ぶ巨大なもので、石垣ではなく土塁で築かれていて、 その上にマツやクスノキが植えられていた。 
城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城で、小倉城天守の図面を参考に、慶長十四年(1609)、五層の破風のない実戦向きの天守閣が完成した。 
享保年間(1716〜1736)の火災により、本丸、二の丸、三の丸、天守閣など、建物の多くを失う。 
幕末の天保六年(1835)には二度目の火災で、当時藩政の中心だった二の丸御殿が焼失したため、 十代藩主鍋島直正が再建に着手し、本丸御殿を建設した。 」

佐賀駅バスセンターから佐賀城跡線に乗り、終点で下車する。 
目の前に佐賀城の鯱の門と続櫓がある。  これらは天保九年(1838)に竣工されたもので、国の重要文化財である。

説明板
「 鯱の門は本丸の門として、天保九年(1838)六月に完成したが、 明治七年(1874)の江藤新平を中心とした佐賀の乱で、佐賀城の大半の建造物を失ったが、 鯱の門は残り、その時の弾痕が残り、戦闘の激しさをしのばせる。  門の構造は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓を組み合わせたもので、 屋根は本瓦葺き、入母屋造、本棟の南北に佐賀城御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱が置かれ、 鍋島氏36万石にふさわしい規模格式を有している。 」

天守は享保年間の火災により焼失したが、再建されないまま今にいたる。 
鯱の門の右側の小高い見晴らしがよい場所に天守台跡の空地があり、説明板がある。

「 本丸からは天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石累、北の犬走りを通って、 入るようになっていた。 
平成二十四年(2012)より、大規模な天守台の発掘調査及び文献調査が行われている。 
中佐の結果、外観は四層屋根ながら、内部は上から上段(5階)、下段(4階)、二段(3階)、三段(2階)、 其外(1階)の五階建てとなっていて、最上層が上下二階建てとなっているのが特徴。  一階は礎石の配置状況から、後期天守閣としては珍しい書院造りであったと、推定されている。 」

鯱の門
     続櫓      天守跡
鯱の門続櫓天守跡



本丸御殿と鯱の門と続櫓は天保九年(1838)に完成し、佐賀藩は幕末まで本丸御殿で政務が行われた。 

説明板
「 本丸御殿は明治以降、県庁や学校など様々な施設として利用されたが、昭和三十二年(1957)までに鯱の門を除いて すべて解体された。 平成十六年(2004)に本丸御殿の一部が木造を復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。 」

本丸御殿は御玄関そして御式台があり、御式台では来客の応接間や色々な行事に使われた部屋である。 
その左手は御料理間で、家臣や藩外の人達との対面や食事の場所に利用された。 
御式台の先は奥に細長い長方形の外御書院で、一之間、二之間、三之間、四之間に廊下を合わせると、 三百二十畳の大広間になっていた。 
その奥にあるのが御三家座で、小城家、蓮池家、鹿島家の御三家の部屋である。 
一之間から左に張り出していて、屯の間(たまりのま)は家臣の控えの間である。 
そこから渡り廊下で繋がるのが藩主の住む空間で、右側に御三家との面談や側近たちとの会議が行われた御小書院、 左手に御座の間と堪忍所がある。  
御座の間は十代藩主鍋島直正が使用していた居室で、 水ヶ江大木公園に南水会館として移築されていたのをここに本来の場所に移築したものである。 

鯱の門
     本丸歴史館      御座の間
鯱の門本丸歴史館御座の間



所在地:佐賀市城内2−18  
JR長崎本線佐賀駅から佐賀市営バス「佐賀城跡行き」で佐賀城跡で下車、すぐ  
佐賀城のスタンプは佐賀県立佐賀城本丸歴史館(0952-41-7550)にて  




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かうんたぁ。