日本100名城 (88) 吉野ヶ里(よしのがり)




吉野ヶ里は弥生時代前期から後期にかけての環壕集落で、集落を守るため、周囲に二重、三重の壕と土塁を巡らしたのが、 城のルーツとされることから、日本100名城の一つに選ばれた。

吉野ヶ里歴史公園に入ると、土塁の上に逆茂木があり、その脇に壕が掘られていて、その内が柵で囲まれている。 

「 吉野ヶ里は弥生時代前期から後期にかけての環壕集落で、 脊振山地から筑紫平野に舌状に伸びた台地上に営まれてきた。  弥生時代に入り、稲作が行われるようになると、水の権利やその他の権益をめぐって戦いが起きるようになる。  外敵から集落を守るために、周囲に二重、三重に濠を巡らした環濠集落(環壕集落)が造られるようになった。 」

壕や逆茂木(さかもぎ)は当時の姿を復元したもので、説明板がある。 

「 弥生時代後期には、外壕と内壕の二重の環濠ができ、 V字型に深く掘られた外壕の総延長は約二千五百メートルに達する。  壕の内外には木柵や土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。 」 

その先は南内郭で、中に物見櫓が二つ建っていて、幾つかの建物がある。 

「 吉野ヶ里では後期の環濠において、突出部がつくられ、物見櫓を思わせる掘立柱建物跡が発見させたことから、 「魏志倭人伝」に記された邪馬台国を彷彿させるとして、注目を集めるようになった。 」 

入口手前に「南の守り」という説明板がある。

「 南内郭の南側の守りには兵士が待機します。 また、中に入れない人が待っています。  門には正門と脇門があり、正門は監視を厳重にするため、櫓門になっています。 」

南内郭に建つ建物を見て廻る。 国の大人の家もある。 

「 南内郭(南の集落)は、大きな外壕の中に内壕が二つあり、その中に建物が建てられていた。 
南の正門と北の脇門があり、正門の両脇には見張りや威嚇のための兵士が聳えていた。
南内郭は国の大人(たいじん)が暮らしながら、吉野ヶ里国の政治を行った場所と考えられている。
大人は軍事、土木、祭祀、外交、裁定(裁判)を司る人で、集会館に王と大人たちが集まり、儀式や話合いを行った。 
大人(たいじん)たちの中で、最高の権力者が王(おう)である。 」 

吉野ヶ里の遺跡調査では内郭の内外に建物の遺構が発見された。 
木で造られた鳥が上に乗る門をくぐると、屋根に特徴がある家があり、「王の家」とある。
中は広々としていて、清潔そうであった。 

「 王の家には王の力を示す品が枕元に置かれ、王と家族が暮らしていた。  王の家は周囲を木柵で囲んでいて、大人たちの家とは独立している。  王の家の裏に王の娘夫婦の家があり、王の妻の家もあり、外で機織りをすることもあった。 
吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の国という説もあるが、この時代は女系社会でもあったので、 娘夫婦が王と一緒に暮らしていたのだろう。 
なお、竪穴住居は、この遺跡では発掘されていないので、 静岡県の登呂遺跡で発見した竪穴住居を再現したものである。 」

逆茂木
     物見櫓      王の家
逆茂木と壕と木柵物見櫓王の家



近くの物見櫓に上ると南内郭が一望できた。 
広場には中国への使者を派遣する時、一緒に持たせる貢物を収める倉や製造する鉄器や銅製品の原料を保管する倉がある。

「 弥生時代の日本には鉄鉱石や砂鉄から鉄を造る技術はなかったので、 材料の鉄板は中国から輸入していた。  鉄製品は鉄板(鉄てい)を曲げて造っていたといい、製造する建物や保管する倉もあった。 」

高床式倉庫には国の各地から徴収された稲穂を保管する倉や軍事のための備蓄や国の財力を示すための稲籾の倉などに使われていた。  発掘調査で食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡などが発掘されたという。 
環濠と土塁の近くには、この郭を守る兵士たちが団体生活で、大きな竪穴住居に住み、兵器を収める倉もあった。 
また、警備のために詰める兵士の詰所もあった。 

説明板「環濠と土塁」
「 環濠と土塁は吉野ヶ里丘陵を巡るように設けられた防衛の施設で、 大きな濠を掘り、掘った土で外側に高め、土塁として敵の侵入を防ぐ。  土塁の上には木の柵を設け、城柵としていたと考えられます。  こうした構造から城=土が成るという言葉の語源になったと考えられています。 」

南内郭を一望
     高床式倉庫      環濠と土塁
南内郭を一望高床式倉庫環濠と土塁



北内郭は、最高祭祀者の住んでいたところで、吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域であった。

「 北内郭は二つの環濠で囲まれ、周囲を隙間のない板塀で囲まれていたと、推定されている。 
この敷地の中に主祭殿、四方に物見櫓、東祭殿と斎堂などの施設があった。 」

北内郭に入ると正面に高さ16.5mの主祭殿がある。

「 主祭殿は、吉野ヶ里の指導者たちだけが出入できる神聖かつ特別な場所で、 田植え、稲刈りの日取り、戦いや狩りの祈りなどの重要な事項を話合ったり、 最高祭祀者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式が行われた。 
主祭殿の二階は重要な会議が開かれる場所で、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらに周囲のムラの長(おさ)も集まられ、 会議が行われた。 」

北内郭の中に唯一ある竪穴住居は、最高祭祀者の最も身近に仕え、 その世話に当たる従者(サンワ)の住居と推定されている。  その奥の高床住居は吉野ヶ里の最高祭祀者の住まいと推定される。

「 最高祭祀者は一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかった。 
主祭殿の東にある斎堂は、まつりの時に身を清めたり、まつりの儀式に使われる道具が置かれた、と推定される。 」

その東の環濠と環濠の間にあったのは東祭殿である。

「 東祭殿は、夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にある高床式の建物で、 ここで太陽の動きを観察し、季節ごとの祭が行われていた。 」

吉野ヶ里の全盛期は、弥生時代後期で、環濠集落に二千五百人、周辺の集落を含めた国全体では、 五千人位の人が暮らしていたといわれる。  しかし、古墳時代の三世紀末から四世紀初めに、吉野ヶ里地域(クニ)の人々はこの地を捨てて、 他に移動していき、吉野ヶ里集落は突然消えてしまった。 

主祭殿
     竪穴住居や高床住居      東祭殿
主祭殿竪穴住居と祭祀者の高床住居東祭殿




所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843  
JR長崎本線吉野ヶ里公園駅・神埼駅から徒歩約15分  
吉野ヶ里のスタンプは吉野ヶ里公園東口にて  




 戻る(日本100名城表紙)




かうんたぁ。