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大手門前井戸跡 | 大手口 | 城の石垣 |
その先に「← 搦手口 二の丸馬場→ ↑弾正丸 」 の道標があり、その近くに「搦手口」の説明板が置かれている。
「 前方の斜面は搦手口と呼ばれる、城の五つある虎口(出入口)の一つである。
搦手(からめて)は城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉である。
城の守りを固めるために通路を屈折させた喰違虎口である。
弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間である。 」
その先の石垣は本丸南西隅石垣で、その説明板は石垣の下にある。
「 平成8年に解体修理した石垣の途中に、横長で薄い石材を用いる特徴があるが、 この石材の大部分が割れていたため、石垣崩壊が進んだと推定する。 この石垣は自然崩壊だけでなく、人為的に破壊されたと推定されるため、 修理した石垣の前面覆土を行い、破壊時のままに復原した。 」
二の丸跡に行くと、区画表示した場所があり、「二の丸長屋建物という説明板がある。
なお、二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間で構成されていた。
「 ここは発掘調査で、名護屋城時代と思われる掘立柱建物が三棟発見されたところである。
二棟は幅約五メートル、長さ二十メートルの東西に細長い長屋状の建物。
その西側に幅約三メートル、長さ約六メートルの小型の建物跡が発見されたが、
掘立柱の簡素な建物から築城時の仮設的な建物だった可能性が指摘される。 」
搦手口 | 本丸南西隅石垣 | 二の丸長屋跡 |
名護屋城は本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などで構成された城で、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれていた。
肥前名護屋城屏風絵のタイルにその姿が描かれている。
その先の左右と奥が土塁で囲まれた土地は遊撃曲輪跡(遊撃丸)で、東西二十六間、南北二十四間である。
「 遊撃丸は文禄二年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれている。 発掘調査で、門礎石、石段、玉砂利の他、船手門や天守台北側から金箔瓦が出土した。 遊撃丸や天守台の石垣は自然石を半分に割り、割った面を表面に見せる”打ちこみはぎ”の石積がされていた。」
肥前名護屋城屏風絵を見ると、天守台の下に突き出ているのが、遊撃丸である。
二の丸馬場に向うと、石段のある見張台のような場所があるが、馬場櫓台で、説明板がある。
「 これは馬場やぐら台で、本城の櫓配置の中でも特異な例で、なぜか馬場の通路の途中に設けられている。
石段は櫓台の前後に造られているが、その周辺に門等の建物を示す痕跡は発見されなかった。 」
名護屋城屏風絵 | 遊撃丸 | 馬場櫓台 |
馬場は本丸の南側にあり、本丸との高低差は十二メートル、築城の時の石垣が残っている。
「 馬場の長さは百メートル、幅は十五メートルと細長く、ここで乗馬の訓練をしたと伝えられる。 また、二の丸から三の丸に至る重要な通路と考えられる。 南側の石垣は櫓に通じる石段も残っている。 」
馬場の先は今は広い土地のままだが、三の丸跡である。
三の丸は本丸より一段低いところに位置する東西三十四間(68m)南北六十二間(124m)の曲輪で、
城内の高台では唯一井戸跡が残っているのが発見されている。
南東部に段差のある場所があったので近づくと、「三の丸南東隅櫓台」の説明板がある。
「 発掘調査で櫓台に新旧二つの石段を発見。 南側の石段(新石段)は発見時露出していたが、北側の石段(旧石段)は、新石段より一メートル二十センチ低く、 地面に埋まっていた。 また、新石段は櫓台の中央にあるが、旧石段は櫓台から北に外れている。 櫓台が構築している途中で、なんらかの設計変更が行われて、石段が付け替えられたと考える。 名護屋城内にはこのようなケースが各所で発見されるが、 その理由として「割普請」によって城造りを各大名に分担させ行われたことや 出兵に合わせ築城を急いだことなどが推定される。 」
屏風絵の中央に建物があり、その前に公家風の人物が描かれている。
その手前の左側にあるのが「北東櫓台」、門を出ると「東出丸」、道を下ると大手口に通じていた。
また、公家の右手に武士がいるが、その上(北西部)に本丸に向う道があった。
馬場 | 三の丸南東隅櫓台 | 名護屋城屏風絵三の丸 |
石組が安定しない石段を上ると 「←三の丸大手口 天守台水手口→」の道標と「←旧石垣新石垣櫓台」の道標があるところにでる。
かなり広い土地で、一部樹木が生えているが、大部分は空地になっているが本丸跡である。
空地の一角に「名護屋城本丸跡」と書かれた苔むした石柱が建っている。
「←旧石垣新石垣櫓台」の道標に従って進むと、「名護屋城址」と書かれた大きな石碑がある。
玉石敷きと芝生敷きで区分されているエリアが、本丸御殿跡で、
「明らかになりつうある秀吉の御殿の様子」 と書かれた
説明板がある。
「 発掘調査により、本丸大手の石段、門跡、埋めこまれた旧石垣、
全長56mに及ぶ長大な多聞櫓などが発見された。
さらに本丸中央部の南寄りの範囲から本丸御殿の一部とみられる約三百畳の大型建物が発見された。
また、本丸中央部の北寄り(名護屋城址碑の北側)から当時の礎石や玉石敷が発見され、
東西の方向にも複数の建物跡が見つかった。
これらは廊下や縁で接続され、全体で御殿を構成していたと思われる。
発掘跡は建物部分は芝生、玉石敷きには玉石を載せて、当時の様子を再現している。 」
名護屋城跡本丸御殿の復元想定図によると、本丸御殿は中央部で、かなりの規模である。
また、右上部に本丸北門、下部に本丸大手門、左上部に天守、中央部〜下部に多聞櫓があったことが分かる。
名護屋城本丸跡碑 | 本丸御殿跡 | 復元想定図 |
名護屋城本丸について設計図のようなものは残っておらず、名護屋城図屏風だけが往時の姿を伝えている。
「 本丸は大手門、北門などの門、五ヶ所の櫓の他、本丸御殿に関連する建物は十三棟描かれている。
大半の屋根は檜皮葺きで書院造風の風格の高い建造物となっている。
本丸の西側と南側はある時期に築城時の石垣を埋めて、新しい石垣を築き、大規模な拡張を行っている。
本丸の西側に造られたのは多聞櫓と南西隅櫓である。
多聞櫓は長屋状に造られた櫓で、主に武器や食料の倉庫として使われた。
発掘調査から多聞櫓は全長五十五メートル、幅は約八メートルの規模をもつ大きな建物だったと推定される。 」
本丸の南西部に発掘された状態が分かるように表示されている区画があり、その前に 「本丸南西隅櫓跡」の説明板が置かれていて、南西隅櫓の右手に長大な多聞櫓が建っていたことも示されている。
説明板「本丸南西隅櫓跡」
「 隅櫓は曲輪の隅部に配された建物で、天守閣と同様に物見としての役目を持っていた。
発掘により、櫓の北壁と東壁にあたる礎石列の一部が確認され、
全体の規模は南北約十メートル、東西約十メートルの広さで、二階建と考える。
この建物の南東部では隅櫓に附属する付櫓と思われる坂があり、
その先左手に名護屋城博物館がある礎石列も発見されている。
廃城によって櫓が解体された後、礎石は土と瓦でさらに完全に埋められていた。 」
本丸の北西隅に、望楼型五重七階の天守が築かれていたが、その場所に「名護屋城天守跡」の石碑が建っている。
秀吉が病のため亡くなると、戦いは終結し、名護屋城は廃城となった。
家康により、廃城にされた石垣などは唐津城の普請に使われたが、
その後に起きた島原の乱で反乱軍に使用されるのを
恐れて、名護屋城は徹底的に壊されたという。
天守台のようなものは一切残っていなかった。
その先には名護屋城に集まった全国の大名の陣屋や示す俯瞰図があった。
ここから大陸に向って船が進んだろうと想像できる雄大なパロラマが広がっていた。
城の周囲には戦いのために集まった大名たちの陣屋がおかれ、一時は京をしのぐ賑わいであった姿を想像し、城探訪は終了した。
名護屋城本丸 | 南西隅櫓跡 | 天守跡 |
所在地:佐賀県唐津市鎮西市名護屋
JR筑肥線唐津駅から昭和バス唐津大手口発「名護屋城博物館方面行き」で約40分、
「名護屋城博物館入口」で下車、徒歩約5分
名護屋城のスタンプは佐賀県立名護屋城博物館(0955-82-4905 9時〜17時 月休、12/29-12/31休み)