日本100名城 (85) 福岡城(ふくおかじょう)







福岡城は、黒田長政により築城され、黒田氏の筑前五十二万三千石の領国経営の拠点になった大城郭である。

「 慶長五年(1600)冬、黒田長政は、関ヶ原の戦いの功績により、筑前一国(五十二万三千石)を与えられ、 小早川秀秋の居城であった名島城に入った。  この城は三方を海に囲まれ、防衛に優れていたが、大きな城下町を造るのには適さなかったので、  博多の西側にある福崎の地の古代の鴻臚館跡に、新しい城と町を築くことにした。  慶長五年(1600)から慶長十二年(1607)までの七年の歳月をかけて完成したのが福岡城で、 福岡と博多という新旧二つの町を持つ城下町が生まれた。  福岡という地名は、黒田家の祖先ゆかりの備前国福岡からという説や福崎と岡山という地名を合成したとする説、などがある。 」

赤坂3丁目バス停から国体道路に出て、レストラン喫茶青山を過ぎると福岡城址の堀が見えてくる。 
堀に架かる橋の手前に「史跡福岡城跡」の石碑があり、右手奥には石垣が見える。 

「 福岡城は、福崎丘陵に築かれた梯郭式の平山城である。  本丸を囲むように、二の丸、その外に大きく三の丸、南丸が配され、 四十七の櫓や十の門を配し、縄張りの範囲は約二十五万平方メートルと、大阪以西では最大規模の城郭であった。 」

橋を渡って、木立の中を行くと右側に石段と櫓があるが、石垣の上の櫓は、二の丸南多聞櫓である。 
多聞櫓の下から見上げると、石垣の組み方が江戸時代初期のものと分り、高く積み上げられた石垣の下を一回りする。 

石碑
     福岡城に入る      石垣
「史跡福岡城跡」の石碑
福岡城に入る
二の丸南多聞櫓と石垣



「福岡城物語」と書かれた説明板がある。

「 南丸(二の丸南郭)にある国指定文化財の多聞櫓は、二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行を持つ平櫓からなる。
高く積み上げられた石垣を土台に築かれ、石落を備えていることから防衛のための櫓と考えられる。 
現在の多聞櫓は後世に改修されたと考えられ、 平櫓は嘉永六年(1853)から翌年にかけて建て替えられた。  平櫓は一般的には突き抜けになっているが、本櫓では十六の小部屋に別れていた。  戦後、短大の学生寮として一時使用されていたことがある。 」

入口から中に入ると右側にニ階建ての隅櫓と平櫓があり、その前に井戸がある。
多聞櫓は非公開で内部は見られなかった。 
外に出て、その先に進むと右側に「黒田官兵衛ゆかりの本丸裏御門跡」の表示板があり、 その先の坂になっているところに本丸の入口の一つ、裏御門があったようすである。 
当時の写真が掲載されていたが、門の左手の石垣が古時打櫓台で、 その上に二層の古時打櫓(時櫓、太鼓櫓ともいう)があったことが分かった。 

隅櫓と平櫓
     裏御門跡      裏御門と古時打櫓
多聞櫓の隅櫓と平櫓
本丸裏御門跡
裏御門と古時打櫓



裏御門から先は本丸になる。

「 本丸にには藩主が政務を行うとともに住居として使われた本丸御殿が建っていた。  福岡藩主は長崎奉行に任じられた人が多く、在城する期間が他の藩主より多かったようである。  明治六年(1873)の廃城令発布に取り壊されたので、今は植栽があるだけの広いスペースである。 」

江戸時代には本丸御殿の南側に鉄御門があったが今はない。 
また、本丸御殿の南側を囲うように高い石垣があり、石段で登ると総石垣で築かれた中枢部に出る。 
ここは天守台があったといわれるところである(造られなかったという説もある) 

「 石垣積みの名人といわれた普請奉行・野口佐助一成の手によるもので、 強固な打ち込み接ぎで積まれている天守跡の総石垣は見る者を圧倒させる見事なものである。 」

ここからの景色はよく、西側に大濠公園、眼下に平和台競技場やラクビー場などのスポーツ施設、 東側に天神方面が一望できる。 

「 福岡城は東側の那珂川を堀として利用し、南北には高石垣を長く築き、 西側にある干潟・草ヶ江を大きな池沼堀として活用して造られている。  築城に当たった普請奉行は野口佐助一成で、江戸城や大坂城の石垣積みを手がけた名人である。  歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、 幕末の嘉永、万延年間、十一代藩主の黒田長博により大改修が行われている。 」

本丸跡
     天守跡      天守跡の展望
本丸跡
天守跡
天守跡の展望



天守台跡からもとに戻り、本丸御殿跡を過ぎると、右側にあるのが二層櫓の祈念櫓である。

説明板「祈念櫓」
「 城の東北が鬼門に当るため、鬼門封じのために建てられた櫓で、棟札により万延元年(1860)三月起工、十月竣工されたことが分かる。  大正七年(1918)に北九州市の大正寺に移築されたが、昭和五十八年(1983)に元の位置に戻された。  現在の櫓は現存する写真と比較すると移築前の櫓と一部違う。  大正寺に移築された際、改築されたようである。  福岡城の特徴として四十七もの多くの櫓があったことが挙げられるが、 現存しているのは本櫓と多聞櫓や解体保存中の潮見櫓などを数える程である。 」

江戸時代には左手に表御門があり、そこを出ると二の丸だった。 
本丸の石垣の下に「二の丸跡」の石碑が建っていた。  二の丸跡には梅の木が植えられていて、梅の名所として有名のようである。 

祈念櫓
     二の丸跡碑      梅林(二の丸跡)
祈念櫓
二の丸跡碑
梅林(二の丸跡)



この先は扇坂で、突き当たった左側に江戸時代には松の木御門が、 また、右折した先には扇坂御門があったようで、 石垣のところに「扇坂御門跡」の石碑がある。 

説明板
「 二の丸は「二の丸」「東二の丸」「南二の丸」に分れていた。  現在地は東二の丸にあたる。 現在はラクビー場になっている北側まで石垣があって、二の丸御殿が建っていた。  扇坂の近辺にお綱門と呼ばれる門があった。 柱に触っただけで、熱病に冒されたり、 夜中にうなされたりする、といわれた。 」

お綱門は扇坂御門か東御門か異なる門かは諸説あるようである。 
ラクビー場の南部から眺めた祈念櫓は二層で美しいフォルムである。 
このラクビー場あたりに二の丸御殿があったのだろう。 
江戸時代にはこの南側に貯水場になる水の手と呼ばれている場所があった。 
二の丸と三の丸の間にあったのは東御門である。 
今は石垣が残るだけであるが、説明板には 「 東御門跡は三の丸、二の丸をつなぐ門で、 ここから二の丸、本丸、天守台と城内を登っていくメインルートでした。  三の丸には藩主を支える家老職の屋敷群があった。 」 とあった。 

扇坂御門跡
     二の丸から見た祈念櫓      東御門跡
扇坂御門跡
二の丸から見た祈念櫓
東御門跡



戦後、日本の各地で天守閣や城郭の復元や石垣が再建される中で、福岡城は整備されなかった。 
三の丸だったところは平和台球場、平和台競技場などのスポーツ施設、 裁判所、市立美術館などの公共施設の他、住宅私有地などになっている。 
平和台競技場の左手にある母里太兵衛邸長屋門や大手門の下之橋御門や潮見櫓が福岡城の数少ない遺構である。 
東御門跡を出たところにあった平和台球場跡は柵で覆われているが、 「鴻臚館跡」の表示があり、遺構の調査が行われているところである。
鴻臚館(こうろかん)は初耳だったが、 平安時代、唐や新羅との貿易のために設けられた施設の跡である。 

説明板「鴻臚館」
「 鴻臚館は、平安時代に建てられた外交のための迎賓館で、平安京と難波津、そして筑紫の三ヵ所に置かれた。  持統二年(688)に建てられた筑紫館(つくしのむろつみ)が、平安時代に、中国風の「鴻臚館」という名に変わった。  七世紀後半から十一世紀まで約四百年ものの間、遣唐使や新羅の使節団、商客らを迎え入れた施設である。 
鴻臚館はこれまで別のところにあったとされてきたが、昭和六十二年(1987)、平和台球場の外野席改修の際、 偶然その遺構の一部が発見され、その後、本格的な発掘調査が行われ、現在も続いている。 」

なお、平和台球場跡の奥に展示館が開設されて、その遺構や大陸外交の歴史、交易品などが展示されている。
そこには日本100名城の福岡城のスタンプも置かれているので、娘は捺印のため立ち寄った。 
平和台球場跡地の脇を進むと福岡城の堀に出て橋が架かっている。 
その手前にあるのが上之御門跡の表示板である。 今は上之御門はなく、石垣が残るだけである。 
福岡城を訪問して感じたのは広大な敷地だったということである。  池沼堀として活用された大濠公園だけでも広いし、三の丸部分はスポーツ施設や公共施設をすっぽり飲みこんであまりある。 
また、桜の名所、舞鶴公園になっている本丸址の石垣の見事なっこと。  特に天守跡とさせるところの石組、小天守、大天守の石垣は高く組まれて、高度な技術だったことに感心した。 

下之橋御門
     鴻臚館跡      上之御門跡
下之橋御門と潮見櫓
鴻臚館跡(平和台球場跡)
上之御門跡



所在地:福岡市中央区城内   
JR九州新幹線福岡駅から市営地下鉄空港線赤坂駅下車、徒歩約5分  
福岡城のスタンプは鴻臚館跡展示館(9時〜17時 12/29-1/3休み) にて  




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かうんたぁ。