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目の前にあるのは解体修理された三の丸曲輪の石垣である。
説明板「三の丸曲輪石垣」
「 三の丸の石垣は、慶長十六年(1611) 二代藩主、山内忠義の時代に築かれたものだが、
解体調査でその中から古い石垣の一部が発見された。
その石垣は、山内一豊か長宗我部元親の頃に築かれた石垣だろう。 」
その先に本丸を守る石垣と櫓があるが、石垣から石樋が出ているのが見える。
説明板「石樋(いしどい) 」
「 高知県は有数の多雨地帯のため、高知城も排水に注意がはらわれている。
石樋は排水が直接石垣に当らないように石垣上部から突き出して造られており、
その下に排水を受ける敷石で地面を保護している。
石樋は本丸や三の丸などを含め十六ヶ所が確認されている。 」
杉ノ段から天守閣に向うと広い石段があり、右に曲がる枡形になっているところに出る。 以前は鉄門があったところで、説明板がある。
説明板「鉄門」
「 この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。
ここに入ると二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため、
石垣は整然と築かれていて、門の扉には鉄板が全体に打ち付けられていたので鉄門と称された。
小さな枡形を形作っている門の内側には番所があって、弓と鉄砲をもった足軽がつめていた。
右と正面の石垣上には矢狭間塀がめぐらされていて、
門内に侵入した敵を三方から攻撃できるようになっていた。
左に曲がって石段を上ると、塀のために右手の二の丸方向への道は見えず、
正面の詰門方向に導かれるように巧妙に設計されていた。
左に曲がって、石段を上がると矢狭間塀のため二の丸の道が見えず、
むしろ詰門への石段が連続して見えるので、
自然に詰門方向へ導かれるよう巧妙に設計されていた。
石段は十八段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は十六段になっている。
石段の中間から鉄門の二階に上がれるようになっている。 」
天守閣は見えているのになかなか天守閣に辿りつかない。
ようやく天守閣の入口らしい門が見えてきた。
近づいて見ると小さな扉しかない。 これは詰門である。
「 詰門は本丸と二の丸の間に設けられた空掘をまたぐ形で建てられた櫓門で、橋廊下と呼ばれていた。 一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっていた。 門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が筋違いになっていて、 通り抜けにくいからくり門になっていて、隠し鉄砲穴が設けられていた。 また、東から本丸にいけないようになっていた。 二階は二の丸から本丸への通路でもあり、内部に三室の畳敷きとし、 家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていた。 」
詰門の先にある石段を上ると二の丸に通じている。
右側の石段を下ったところが三の丸のあったところだが、
明治六年の廃城令による公園化で、すべての建物が取り壊された。
詰門の右側を上がったところに二の丸があったが、二の丸跡は広い空き地になっている。
「 二の丸は本丸の北、三の丸へ西上方にあり、三の丸より約八メートル高い位置にあった。
縦約四十メートル、外輪の長さ二百七十メートル、総面積四千百二十八平方メートルの台地である。
二の丸には二の丸御殿が建てられていて、政務をとる表御殿と藩主が日常生活をする奥御殿が連続して
建てられていて、一部二階建てになっていたが、明治六年、公園化により二の丸御殿は壊され、今はない。
西北隅にあった乾櫓は城内の八つの櫓の内で唯一の三階建てで、二階と三階の屋根には
飾りの千鳥破風を配し、小天守のようだったといわれる。
また、北の一段下がったところに水の戸門があり、綿蔵、綿蔵門を経て、城八幡や北門へ通じていたという。 」
本丸に入るため、「懐徳館入口」とある建物で、入館料を支払う。
中に入ると詰門の二階に出て、脇に畳の部屋があった。
詰門を出ると正面に本丸御殿(懐徳館)、奥に天守閣がある。
「 本丸御殿は懐徳館とも呼ばれ、国の重要文化財になっている。
最初に建てられたのは慶長八年(1603)で、規模は小さいが書院造りである。
対面所としての機能に加え、雪隠や御茶所が設置され、
藩主の居室的性質を持ち、初代藩主、山内一豊夫妻が住んだといわれる。
享保十二年(1727)、城下から出火した大火で焼失したが、寛延二年(1749)に再建された。
建物内には上段ノ間、二ノ間、三ノ間、四ノ間などがあり、これらは襖で仕切られていた。
雪隠ノ間は藩主専用のトイレである。
上段ノ間の脇に天守取合ノ間があるが、これは藩主の天守閣への登城口と思われる。
なお、高知城には二の丸御殿や三の丸御殿があったので、本丸御殿は藩主入国の際に行われる「城内巡見」、
「天守閣登城」などの特別な儀礼を除けば、使用されることはなかったといわれる。
部屋の襖には屏風絵が描かれていて、日本庭園も立派である。 」
殿さま専用のトイレも見たが、特別な儀礼を除けば本丸御殿は使用されなかったというので、
何回使用されたのか?と下らないことを思った。
黒潮の波を形どった欄間は、土佐の左甚五郎といわれた武市高明(通称甚七)の作と、伝えられる。
本丸御殿の周囲は石垣の上に塀や櫓で守られている。
南矢狭間塀には物見窓が設けられている。
「 鉄砲狭間からでは敵兵全体の動向を把握するのが難しく、 土壁上面寄りに一間隔で横長に横連子の武者窓を設け、 本丸東南部の物見を一手に引き受けていた。 」
御城築記によると、天守は寛永八年(1603)に完成したとされるが、
享保十二年(1727)の大火で焼失した。
現存する天守は延享四年(1747)に再建されたものである。
「 望楼型の天守で、外観は四重、内部は三層六階建ての構造で、
二重の入母屋造の屋根の上に、二重の屋根の上に望楼を載せている。
天守台がなく、本丸の敷地に直に礎石を敷き、本丸御殿に隣接して建てられている。
高さは十八メートル五十センチで、南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた、古式な(安土桃山時代の)様式で、
窓は突上窓と連子窓である。
初層と二層は総二階造りで八間×六間、三層と四層は四間四方、五層と最上層は三間四方の造りである。
天守の最上階には初代一豊の先の居城・遠州掛川城を模して造ったとされる廻縁高欄が付けられている。
二代目の天守は、寛永期のものより小振りとなったが、外観は焼失前の姿が復興されたといわれる。 」
天守閣の上からは見晴らしも良く、眼下には桜や梅、桃の花盛りだった。
江戸時代には天守閣の裏側は一段下がったところに梅ノ段があり、
詰門の一階から通じていたというが、今は梅林になっている。
所在地:高知市丸之内1−2−1
JR土讃線高知駅から徒歩約25分
高知城のスタンプは高知城本丸御殿(420円 9時〜17時 12/26-1/1は休み) にて