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三叉路で左折して上って行くのが本丸への道で、歩いていくと「三之門跡」の標柱が現れた。
江戸時代にはここに三の門があったのである。
その先には「書物矢倉跡」の標柱があったが、江戸時代にはこのあたりから帯曲輪になっていて、
その先には太鼓矢倉があったようである。
三の門を過ぎると上りだが、その先に「二之門跡」の標柱があり、門のあったところにも「二之門跡」の表示があった。
説明板
「 江戸時代には二の門と地角矢倉があった。
宇和島市が行った発掘調査によると、二の門は礎石の一部が残っていたが、
門と想定される場所は、現在石段になっていて、この改変は幕末なのか明治以降なのか不明である。 」
江戸時代には二の門を入ると狭いが、二之丸があった。 現在は「二之丸」の説明板があり、
「 二の丸は天守が建つ本丸の最終防衛施設として、眼下の雷門周辺に侵入した敵を攻撃するために築かれたもので、
帯曲輪と連結していた。 」 とある。
その先(二の丸北端)に矢倉跡を感じさせるスペースに「御算用矢倉跡」の表示があった。
宇和島市が行った発掘調査によると、
「 御算用矢倉と塀庇は宇和島城絵図と現存する礎石がほぼ一致したが、
これも幕末に改修、修理が行われている。
二の丸の幕末の改修、修理は数回行われているが、安政二年(1854)に起きた大地震との関係が考えられる。 」 とあった。
江戸時代には二の門をくぐるとすぐ左にUターンすると櫛形門の一の門があった。
現在、石段を数段上ると「一之門跡」の標柱がある。
一の門をくぐると本丸だが、江戸時代、一之門の両脇には櫛形門矢倉と北角矢倉、御鉄砲矢倉、御休息矢倉が続いていた。
一の門の左側に礎石の一部が残る場所に「櫛形門矢倉跡」の標柱があった。
また、反対側には「北角矢倉跡」の標柱が建っている。
本丸は想像していたよりかなり狭い。
本丸に入った先に長方形に少し高くなっているスペースがあり、「御大所(台所跡)」の標柱があり、
ここに藩主に出す料理が造られる場所があったことが分かった。
その先に礎石から大棟までの高さ十五・七二メートルの天守閣が建っている。 規模は小さいが、現存十二天守の一つで、国の重要文化財に指定されている。
「 藤堂高虎は自然の岩盤の上に地業を施して天守台とし、複合式望楼型の三重天守を建てた。
初重平面はほぼ歪みのない正方形で、大入母屋屋根、2重目以上の平面は複雑に突出した外観だった。
二代目藩主伊達宗利は、寛文五年(1665) 天守閣は老朽化したとして、修築の名目で、寛文六年(1666)に建てられたが、
二代目天守で、独立式層塔型三重三階に建て替えた。 」
天守の入口には唐破風屋根で、開放的な造りの玄関が用いられている。
「 妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」の紋が見られ、 また屋根瓦にも「九曜」が用いられている。 外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、優美な入母屋造で南面と北面に二つ、西面に一つの千鳥破風を配している。 」
天守閣は万延元年(1860)と昭和三十五年(1960)に大修理を受けているが、昔の姿を今もなお伝えている。
天守閣の中に入ってみる。
「 天守閣の中は狭く、階段は急である。
廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、
これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられた、とされる。
壁には狭間や石落としなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。
使い勝手や装飾が重視されていることから、無防備な太平の世の建築であるといわれるが、
実際は、全ての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計だったと考えられている。 」
天守を降りると、本丸の奥には「御鉄砲矢倉跡」の標柱があった。
本丸を跡にして籐兵衛丸へ向う。 先程本丸へ向かう三叉路を反対にとると「雷門跡」の標柱がある。
「 雷門は籐兵衛丸から本丸へ向かう門だった。
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものでだが、
縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。
五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、
幕府の隠密が江戸に送った密書『讃岐伊予土佐阿波探索書』には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記されたという。 」
白い塀に囲まれた一角に「籐兵衛丸矢倉跡」の標柱があった。
「 籐兵衛丸は城を守るために造られた出丸で、城番屋敷が建っていたところである。 現在は城山郷土館が建っている。 郷土館は麓の山里にあった山里倉庫(武器庫)を移築したものである。 弘化二年(1845)に建てられたもので、元は城内の調練場にあったが、 ここに移築して郷土館として開放されている。 」
入館したが宇和島城に関するものは少なく、昭和以前の生活雑貨や農機具、
この地の祭に関するものなどが収納されていた。
「 穂積陳重、八束兄弟の生家長屋門」の説明板があり、立派な門がある。
「 穂積陳重、八束兄弟は旧宇和島藩士の出生で、法学博士、 東京帝国大学教授として日本の近代法学の開祖的業績をあげたという人物である。 この門は宇和島市中の町十一番地(現京町1番34)に天保十三年(1842)頃建てられたもので、 兄弟が幼年期を過ごした当時の建物である。 格子出窓は明治四年に改造された。 」
宇和島城本丸への登城道の一つ、搦め手道を下る。
江戸時代には長門丸、代右衛門丸があったようだが、痕跡は分らなかった。
途中に南予護国神社の社殿があり、ここには幕末から明治にかけて活躍した宇和島藩八代目伊達宗城が祭神になっている。
道を下ると上り立ち門があった。
「 薬医門形式の切妻、本瓦葺き、丸瓦の先端には伊達家の紋章の一つ、丸曜の紋が付いている。 建造時期は定かでないが、城郭全体が修復された寛文年間(1661〜1672)と推定される。 」
門をくぐると伊達宗城侯像が建っていた。
所在地:愛媛県宇和島市丸之内
JR予讃線宇和島駅から徒歩約15分で登り口、登り口から天守まで徒歩で約20分
宇和島城のスタンプは宇和島城天守(200円 9時〜17時 無休)にて