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高麗門の一ノ門は下が見通せる構造になっていて、敵の様子が確認できた。
一ノ門やその南櫓と小天守とともに一ノ門前に虎口を形成する役割を担っていた。
「 高麗門の一ノ門をくぐると、薬医門の二ノ門にかけては、四方を囲む枡形になっている。
単層櫓の一ノ門南櫓、一ノ門東塀、単層隅櫓の二ノ門南櫓、二ノ門東塀、二ノ門と筋鉄門(すじがねもん)、
東塀に接する単層櫓の三ノ門南櫓で仕切られた枡形になっている。
筋鉄門東塀は、大天守正面にある渡塀で、周囲の櫓等から攻撃して入ってきた敵を丸殺しにできる。 」
薬医門の二ノ門は左手の石段の上にあるが、堅固な面堅板製で突破するのは苦労するだろう。
そこを通り抜けると、また、枡形である。
本壇東北隅には天神櫓がある。
天神櫓は鬼門(北東)に建てられた櫓で、不浄門とも呼ばれた。
説明板「重要文化財・天神櫓」
「 本壇東北隅に位置し、艮櫓、艮門および小筒櫓を防衛する。
この櫓は松平家の先祖である菅原道真(天満天神)像を安置し、城の安全を祈ったのでこの名がある。
昭和二十年戦災により焼失したので昭和五十五年に古い資料に基づいて再建された。
本壇上の北から西かけての北東面の防衛ラインの拠点にあり、艮門の状況を把握する役割を持っていた。
社寺建築に用いられる正面扉様式である蔀戸(しとみど)を持つ本壇天神櫓は全国的にもあまり例はないといわれる。 」
二ノ門から三ノ門へはUターンして進む。 天守は目の前に見えるがすぐには着かない。 天守からの攻撃に耐えながら先に進むと三ノ門がある。
説明板「重要文化財・三ノ門」
「 本壇における第三番目の門で高麗門の形式を持つ。
三ノ門南櫓・天守閣から射撃される構えになっている。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
本壇内庭の東側の防備を固める三ノ門は脇戸を省略した高麗門で、
三ノ門東塀とともに二ノ門内側や天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めていた。 」
三ノ門南櫓は国の重要文化財に指定されている。
説明板「三ノ門南櫓」
「 一ノ門、二ノ門、三ノ門を防衛する役目を持つ一重櫓である。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 」
三ノ門を通過すると大天守正面と国の重要文化財に指定されている筋鉄門東塀に挟まれた通路に至るが、ここも枡形で、 四方から攻撃を受ける構造になっている。
「 筋鉄門東塀は大天守正面にある渡塀で、一ノ門や一ノ門南櫓と小天守とともに、 一ノ門前に虎口を形成する役割を担い、 一ノ門南櫓、二ノ門、小天守閣を防衛していた。 天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 」
天守に入るには櫓門の筋鉄門を突破しなければならない。
筋鉄門は天守中庭を防衛する重要な門で、
大天守と玄関多聞を繋ぐ内門とともに内庭防備の櫓門として設けられたものである。
この門の櫓は大天守と小天守を繋ぎ、三の門から侵入する敵の正面を攻撃する構えになっている。
説明板「重要文化財・筋鉄門」
「 脇戸付きの櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。
櫓は天守閣と小天守閣の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
昭和八年に放火により焼失した。 昭和四十三年もとの姿に復元された。 」
鉄張りで分厚い筋鉄門をくぐると、本壇の内庭に出る。
左に南隅櫓、右に天守閣と小天守で四方を囲まれたスペースで、四方から攻撃される構造になっている。
正面にあるのは内門、右側には天守への入場口があった。
江戸時代の天守への入口は玄関多聞からだったが、現在は天守閣の下の穀物倉からになっている。
説明板「内門」
「 天守閣の西側に位置し、仕切門との間は枡形になっている。
上の櫓は天守閣と玄関多聞の通路である。
天守閣および玄関多聞の戦力によって防衛される。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。 」
南隅櫓のある方向へ歩くと、玄関多聞と南隅櫓がある。
説明板「南隅櫓」
「 南隅櫓は二重二階の建物で、天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。 」
多聞櫓形式である十間廊下で結ばれている南隅櫓と北隅櫓は、天守における搦手方面の拠点となっており、
二階の窓には格式を高めるため飾りの高欄がある。
玄関多聞は内庭の北面にあり、向唐破風屋根で妻入りの建物である。
説明板「玄関多聞」
「 南隅櫓と小天守閣とを連結する建物で、南隅櫓と紫竹門を防衛する。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。 」
天守本壇の建物群は天守丸の石垣とともに幕末に再建されたことから、
各所に親藩としての格式を重んじた居住化傾向が顕れているといわれる。
山頂の本丸北部には「本壇」という天守曲輪を持ち、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を三棟の渡櫓(廊下)で連結し、連立式天守をなしている。
「 松山城の本壇は二つの山の谷を埋めたてて造られたといわれ、
本壇がある標高百三十二メートルの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため地盤が弱かったからとも、
武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれているが理由は不明である。
加藤嘉明が建てた大天守は五層五階であったが、その後城主になった松平定行により、
寛永十九年(1642)、三層三階回廊付きの天守に改修された。
寛永十九年(1642)に建てた三重天守も、天明四年(1784)の落雷で、本壇の主要建物とともに焼失。 」
現存する大天守は、嘉永五年(1852)に石垣普請とともに再建工事が完了し、
安政元年(1854)に落成した三代目の天守である。
天守は連立式三重三階地下一階構造の層塔型天守である。
「 本壇は八・三メートルの高さで、その上に高さ二十メートルの大天守がある。
八間×十間の切込みハギの石積み天守台の内側に地下一階が造られていて、江戸時代には穀物倉として使用されていた。
建築材料には樟や欅また栂など、一級と呼ばれる木材が使用された。
外部は一階、二階に、黒塗下見板張り、塗籠角格子の窓には、突上げ板戸などを配し、
屋根には、千鳥破風や軒唐破風が付れられている。
三階は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には外廻縁と高欄が付けられている。
また、天守内部の各階に武者走りがあり、
その内側の身舎(もや)には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳が敷ける床板張りで、床の間が付けられていた。
破風部屋には二つの鉄砲破風が付けられていた。
なお、鯱を含め屋根は瓦葺で、屋根瓦には建造主の家紋である三つ葉葵が付けられている。 」
南隅櫓と北隅櫓を結ぶ廊下は「十間廊下」と呼ばれ、多くの狭間が設けられていた。
「 北隅櫓は城兵の刀や槍が保管するのに使われていたという。
南隅櫓と小天守との間には白漆喰が塗られた分厚い戸があるが、敵の襲撃に備えた他、類焼を防ぐ目的があったという。 」
小天守は一の門の枡形虎口を見下ろす位置にあるとともに、本丸大手方面や紫竹門を監視する役割があり、 二階全部と一階上部が塗籠め白漆喰の外壁仕様となっている。
説明板「小天守」
「 天守閣につぐ重要な二層二階の櫓で、大手、搦め手を防衛する絶好の位置にある。
純白の外壁が天守閣の黒塗りの板壁と対比して美しい。 慶長年間創建当時は着見櫓といわれていた。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
国宝に指定される直前の昭和八年に放火によって焼失した。
昭和四十三年に昔日の姿に復元された。 」
わが国最後の完全な城郭建築と言われる大天守の最上階からは三百六十度眺望がひらけ、
松山平野や瀬戸内海などを見渡すことができた。
下を見ると、十間廊下の渡櫓や北隅櫓、玄関多聞が見えた。
天守には松山城に関する資料や武器などの展示があった。
下に降りて、内門から外に出ると右側に白壁の塀がある。 重要文化財の仕切門内塀である。
仕切門内塀は本壇北側の石垣に面するとともに、南に折れ曲がり玄関多聞櫓まで達している。
説明板「重要文化財・仕切門内塀」
「 乾門方面に対し、側防の構えとなっている。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年に法が改正され、重要文化財になった。 」
天守の南西にあるこの塀をよく見ると、土台が木で出来ていて、有事には切り倒して、
外側に塀を落し、本丸北曲輪や北隅櫓下の石垣を上ってくる兵を壊滅させる役割を持つ凄い塀なのである。
その先にあるのが仕切門である。
この門は本壇内庭の北側の防備を固める高麗門で、天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。
説明板「重要文化財・仕切門」
「 脇戸付高麗門であって、天守閣の北側に位置し、内門との間が枡形になっている。
天守閣、玄関多聞によって防衛される仕組みである。
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年に法が改正され、重要文化財になった。 」
仕切門を出て、本壇の北東にある天神櫓の脇の石段を降りる。
振り返ると大天守と小天守が見えた。
右手に艮櫓(うしとらやぐら)と艮門東続櫓がある。
「 天神櫓は本壇の北東、艮門は本壇の東に位置する。
艮櫓と艮櫓続櫓は東面の防備を担当するとともに虎口として寄手から長者ヶ平から搦木戸門に、
あるいはまた絡手の乾門方面に敵兵がせまった時、
この門から出撃し、寄手の側面をつく戦法を考慮していたものである。
これらの建物は天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失したが、
昭和五十九年(1984)に古い資料に基づいて昔日の姿に復元した。 」
ここからUターンして本壇を回って、本壇の西北部にある野原櫓に向う。
野原櫓は本壇の西北石垣に面して建てられ、大入母屋屋根の中ほどに二間半の二階を載せていて、
石落とし、狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残る建物である。
大屋根の上に造られた物見櫓から天守建築が始まったとする望楼型天守の論拠となる構造物で、
日本で唯一現存している望楼型二重櫓(ぼうろうがたにじゅうやぐら)である。
説明板「重要文化財・野原櫓」
「 本丸の西北方および北側を防衛する重要な二重櫓で、騎馬櫓ともいわれた。
慶長年間の建造物で、その構造は戦国時代における望楼の面影を偲ぶ遺構として注目される。
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年の法の改正により重要文化財となった。 」
その先には乾門(いぬいもん)があり、門に続く乾門東続櫓、同西塀があり、右手には乾櫓がある。
乾門とその続櫓は本丸搦手防衛の重要な拠点で、重要文化財の乾櫓とともに強力な防衛ラインを構築している。
また、搦手から本丸下の東側通路に侵入しようとする敵のために前述した野原櫓が築かれている。
乾門は慶長七年(602)、伊予国正木城城主十万石の大名だった加藤嘉明が関ヶ原の戦いでの戦功により、
二十万石に加増され、松山城の築城に着手したが、その際、正木城から移築した門である。
説明板「重要文化財・乾門」
「 搦手からのなかで最も重要な構えを持つ脇門付きの櫓門である。
慶長年間築城の際、正木城(伊予郡松前町)から移築されたといわれる。
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災で焼失したので、
昭和五十七年に古い資料に基づき復元した。 」
乾櫓は古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、
本丸搦手(からめて:裏側)方面の防備のための二重の隅櫓で、
本丸の乾(北西)の隅の鈍角の石垣の上に建てられた鈍角の櫓である。
窓は格子、突上げ構造で、腰袴式ではなく出窓式の石落としが設けられている。
乾門からは石垣と塀、南櫓と小天守が迫るように見える。
敵兵は乾門を突破してもそこから攻撃を受ける仕掛けである。
乾門から東に北隅櫓、十間廊下、南隅櫓が石垣の上に一線上に繋がり、壮観である。
紫竹門まで来ると、天守閣を中心に一周したことになる。
本壇は紫竹門から北が半分で、南側には細長く空地が続いている。
馬具櫓は太鼓櫓とともに二之丸方面を防御する二層櫓である。
「 昭和九年に国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災により焼失した。 昭和三十三年に鉄筋で復元し、今は松山城防災施設の総合操作室として使用されている。 」
説明板「井戸」
「 南北二つの峰を埋め立てて、本丸の敷地をつくった時、この地にあった泉を井戸として残したと
伝えられる。 井戸の直径は二メートル、深さ四十二メートル、城郭の飲料水として使用された。
上屋は昭和二十年の戦災で焼失、昭和二十七年に復元された。 」
その先には太鼓櫓と太鼓門、同南北続櫓、巽櫓(たつみやぐら)が高さ五メートルの石垣に一線上に構築され、
筒井門から本丸南城郭に侵入してくる敵に備える本丸防衛ラインを構築している。
太鼓櫓と同続櫓、巽櫓、巽櫓西塀は昭和二十年の戦災で焼失したのを昭和六十一年(1986)に復元された。
「 本丸の南西に位置する太鼓櫓は、大手方面の眺めのよいところに建てられており、
戦の合図のための太鼓が置かれたことからこの名がある。
太鼓櫓と太鼓門との間には二十四メートルの渡塀があり、二十一の狭間と二つの石落しが用意されていて、敵の襲撃に迎え討つ体制は十分である。
大手口から侵入してきた敵は正面の渡塀から射撃されるが、本丸に行くには塀の前で右折し進む。
その先にあるのが本丸の南東にある太鼓門と巽櫓である。
太鼓門は脇戸付の櫓門で、南と北に続櫓がある。
巽櫓は、本丸下の東側通路の監視とともに、太鼓門に到達した敵の背後を攻撃できる位置に建てられている。
太鼓門の前は、巽櫓と太鼓門南北続櫓で、枡形を形成し、敵の攻撃を防衛するようになっている。 」
その南西にあるのは筒井門、筒井門東続櫓、筒井門西続櫓である。
これらの建物は昭和四十六年(1971)に復元されたものである。
「 櫓門である筒井門は大手から本丸への通路にある重要な門で、その守りを固めるため、
東と西に続櫓が置かれている。
筒井門は、築城の際、正木城から移築されたと伝えられ、松山城最大の門である。
三之丸、二之丸から本丸に向う敵への大手の固めを構成する重要な門で、城中最重要かつ堅固な所となっている。 」
筒井門の右側石垣で写真では見えないが、その奥に国の重要文化財に指定されている隠門(かくれもん)と筒井門続櫓がある。
「 隠門と筒井門続櫓は、筒井門の奥の石垣の陰に隠されている、埋門(うずみもん)形式の櫓門で、
戸無門から筒井門に迫る敵を背後から急襲する構えとなっている。
隠門は、脇戸を持たず、扉の鉄板張りの中に潜戸を仕組など規模は小さいが豪放な構えで、
門の上の続櫓外部の下見張板や格子窓形式の突揚け戸などとともに、築城当時の面影を見ることができる。 」
筒井門の西側にあるのは国の重要文化財に指定されている戸無門(となしもん)である。
戸無門は高麗門で、慶長の創建当初から門扉がないのでその名がある。
道は筒井門から左折し、突き当たりを右に行くと戸無門で、そこをくぐるとまたUターンすることになる。
そこは太鼓櫓の下で、江戸時代には中の門があった。
ここは三又路になっていて、右への道は乾門方面だが、歩いて行くと行止まりになる。
敵が下から攻めてきた時、この中の門で、この道と戸無門方面の道とに分散させる仕組みになっていた。
中の門跡の先にある両側の大きな石垣は大手門の跡である。
江戸時代には近くに待合番所があり、揚木戸門があった。
以上で松山城の本丸の見学は終了。
築城した加藤高明は朝鮮の役での経験からこのような堅固な仕組みを構築したといい、これまで訪れた城で一番堅固と思った。
所在地:愛媛県松山市丸之内1
JR予讃線松山駅から伊予鉄道「道後温泉行き」で約10分「大街道」で下車、徒歩約5分、
城山ロープウエイで約2分、山頂駅から天守まで徒歩約10分
松山城のスタンプは松山城天守入口にて
(入城料510円 2月〜7月 9月〜11月9時〜17時 8月〜9月9時〜17時30分 12月〜1月9時〜16時30分 12月第3水と12月29日は休み)