日本100名城 (80) 湯築城(ゆづきじょう)






湯築城(ゆづきじょう)はこの地を支配した河野氏の居城で、丘陵部とその下の平地部からなり、 内掘と外堀および土塁が巡る城であった。 
南北朝初期に初めて姿を見せる湯築城は、室町期以降、伊予国守護所として河野氏の伊予統治の中心となり、 河野氏の居城として約二百五十年間存続した。

「 南北朝時代の始め(十四世紀前半)河野通盛によって築かれたといわれる湯築城は 二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的平山城の形態をなす城だったようである。   天正十三年(1585)、全国統一を目指す豊臣(羽柴)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城を包囲され、 最後の当主、河野通直(牛福丸)は降伏し、河野氏の伊予支配に終止符が打たれた。  福島正則が城主となるが、天正十五年(1587)、国分山城に居城を移したため、湯築城は廃城となる。  慶長七年(1602)に松山城が築城された際、 湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明しているという。  湯築城跡は、明治二十一年(1888) 県立道後公園として整備され、平成十四年(2002)、国の史跡に指定された。 発掘の成果に基づき、武家屋敷や土塀、道路、排水溝などが復元された。 」

湯築城だったところを公園にした県立道後公園は大変広い。  直径約三百五十メートルのほぼ円形で、中央部にある見晴らし台の丘陵は三十一メートルの高さである。 
公園の道は湯築城の外堀に囲まれ、丘陵部を取り巻くように内掘が巡っている。 
江戸時代の絵図から東側が大手、西側が搦手と考えられる。 
南側の動物園跡地を発掘調査したところ、上級武士の居住地の遺構が見つかった。 
発掘調査の資料を中心とした資料館と外観を復元した武家屋敷が公開されている。 
訪れた時は梅の季節で賑わっていた。 土塁の石垣を見付けた。  また、内掘に橋がかかり、見晴らし台に行けるようになっていた。 

道後公園全体図
     土塁の石垣      内掘跡
道後公園(湯築城)全体図
土塁の石垣
内掘跡



城跡の北側には湯釜地蔵が祀られ、湯釜があった。

説明板「湯釜」
「湯釜は浴槽内の温泉の湯出口に設置するもので、この湯釜は現在の道後温泉本館ができた明治二十七(1894)年まで使用されていたもので、 直径166.7cm、高さ157.6cm、花崗岩製である。 
奈良時代の天平勝宝年間(749〜757)につくられたと伝えられ、 湯釜上部に書かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の 六字名号は河野通有の依頼により、一遍上人が刻んだものといわれている。 
湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、 享禄四(1531)年、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。 」

鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたる。 
いまなみ海道にある大山祇神社は河野氏を始め源氏やその他の武将に篤く信奉され、多くの甲冑が奉納されてきた。

「 全国の国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の八割がこの大三島に保存されているというから驚き。 河野道時、河野道有も奉納している。    河野通信は三島神紋流旗を奉納しているが、これも重要文化財である。  源義経を勝利を導いたのは河野通信が潮の変化を進言したことによるとされ、戦功の恩賞として所領を安堵、 さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職が与えられ、河野水軍として瀬戸内を把握した。 」

公園の北側に正岡子規を紹介する松山市立子規記念博物館がある。 
道後温泉は三千年の歴史を誇り、聖徳太子も訪れたといわれる。  その温泉を象徴するのが道後温泉本館。 
明治二十七年(1894)に建築された木造三階建ての建物で、夏目漱石の坊っちゃんにも登場する。 

湯釜
     子規記念博物館      道後温泉本館
湯釜
子規記念博物館
道後温泉本館



所在地:愛媛県松山市道後温泉  
JR予讃線松山駅から市内電車「道後温泉行き」で20分「公園前」駅で下車、徒歩約1分  
湯築城のスタンプは湯築城資料館(9時〜17時休館日は玄関の外にある)  



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かうんたぁ。