日本100名城 (79) 今治城(いまばりじょう)





今治城は藤堂高寅が慶長元年(1596)から六年をかけて築いた三重の堀に海水を引き入れた特異な構造の大規模な海城で、 別名吹揚城(ふきあげじょう)ともいわれる。

「 藤堂高虎は、慶長七年(1602)、関ヶ原の戦いでの功により伊予半国の二十万石を与えられ、唐子山山頂の国府城に入城したが、 瀬戸内海の交易利権や監視する上からもメリットのある、海から堀へ直接船で入ることができる城を目指し、 瀬戸内海に面した海岸に海砂をかき集めて築城したのが今治城である。 
高虎は長方形を組み合わせたような直線的な城壁に囲まれた曲輪に、高石垣と三重の水掘を巡られた城を築き、 三重の堀には海水を取り入れた水城(平城)を慶長十三年(1608)に完成させた。 
高虎は翌年の慶長十四年(1609年) 伊勢国津へ転封となったが、養子の高吉が飛び地として残った今治二万石に居城した。  寛永十二年(1635)、高吉も伊賀国名張に転封になり、代わって伊勢国長島より松平定房が入封した。  松平定房は久松松平氏と呼ばれた徳川家親藩の出で、その子孫が明治維新まで今治藩の藩主を続けた。 
今治城は廃城令施行前の明治二年(1869)に廃城となり、ほとんどの建物が破却された。 」

今治城は外掘、中堀、内堀と三つの堀に囲まれた海城だったが、今は埋められて残っているのは内掘だけである。 
内掘の幅は五十メートルから七十メートルで、その先に見えるのは東多聞櫓と多聞櫓、武具櫓である。

「 櫓が築かれている石垣は高さ九メートル〜十三メートルで、野面積みである。 
石垣の下の細長い通路のようなものは、藤堂高虎が行った地盤強化策の「犬走り」と呼ばれるものである。 
海岸に城を築くには軟弱な地盤だったので、石垣の下に細長い空地を設け、補強したのである。 」

武具櫓は二の丸北隅の櫓で、二の丸表門の鉄櫓や長大な多聞櫓につながっていた。

「 武具櫓は明治二年(1869)の廃城の際は破壊を免れたが、 明治四年(1871)に発生した火事で、 内部の火薬に引火し、爆発炎上し、破壊された。  
現在の武具櫓は昭和五十五年(1980)に再建したものである。 」

中に入ると格子窓は敵兵が頭を入れない大きさながら、内部からは鉄砲や弓矢で攻撃できる幅になっていて、 石落しも備えている。 
内掘に架かる立派な道を進むと正面と左右は石垣で、その上に多聞櫓がある。

「 江戸時代には橋を渡ったところに高麗門があったといわれ、 門を入るとそこは多聞櫓に囲まれた枡形になっていて、四方から敵に攻撃をするしくみになっていた。 」

内掘越しの今治城
     東多聞櫓と武具櫓      多聞櫓
内掘越しの今治城
東多聞櫓と武具櫓の石垣下に犬走り
多聞櫓



右手にある楼門は鉄御門(くろがねごもん)といわれる構造も規模もしっかりしていた門で、 守りの堅い枡形虎口を守っていた。 
現在の門は平成十九年(2007)に江戸時代の史実に基づき、門と石垣そして隣接する東多聞櫓五棟ともに復元されたものである。

説明板
「 発掘調査で検出された二つの石は、門の正面鏡柱と背面控柱を支える礎石で、 梁間寸法五・七十メートルあったとあり、 建て替える際、その石は脆いので使用せず、脇に展示した。 」

門をくぐると二の丸で、藤堂高虎の像が建っているが、これも鉄御門の再建時に建立されたものだろう。 
藩主の館は吹揚神社の社務所のあたりに、 広場になっている左側(東側)には側近の武士の屋敷があったようである。 
本丸があったところは吹揚神社の社殿や猿田彦神社、吹揚稲荷神社になっている。

説明板「吹揚神社」
「 廃城後、市内より蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮を城内に合祀し遷座、明治五年に旧城名をとり、吹揚神社と称した。  後に藤堂高虎と久松家祖神の平松定房を奉遷した。 」 

天守と接続する再建された門をくぐると、目の前に天守閣が現れた。 
日本100名城の公式ガイドブックには 
「 本丸には日本初の層塔型の五重天守が建てられた。 飾りの破風をもたず、各階を規則的に逓減させ、 内部には攻撃用の武者走りを巡らせた当時最新式の天守であった。  しかし、この天守は高虎転封の際、解体され、その後徳川家に献上されて、丹波亀山城天守となった。 」 とある。 
今治城の天守は建造されたか否かには諸説あるようである。

「 藤堂家の家譜「国史」巻二に、「 城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き 」という、記述があるのを建設派は根拠とする。  一方、天守は天守台と呼ばれる基壇を造り、その上に建てられるもののため、 城内に天守台の遺構が確認されていないことから今治城に天守は存在しなかったという説を唱える。  また、その主張に対し、天守台を築かず本丸中央付近の地盤に直に基礎を敷き、建てることで、 より整形された矩形を造る必要があった層塔型天守の建造を可能にした、という説もある。 
建造された後、天守が亀山城へ移築されたとする説は、 「寛政重修諸家譜」の「 慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす 」  という記述が根拠になっている。 
このため、存在したとしても、慶長九年(1604)に竣工し、慶長十五年(1610)頃に亀山城に移されているので、 最長でも六年程しか存在していなかったことになる。 」

現在ある今治城の天守は、昭和五十五年(1980)に五層六階の鉄筋コンクリートで建てられたもので、 亀山城天守の外観を参考にしたとされるが、 亀山城天守が層塔型の構造で最上重の唐破風と入母屋破風のみであるのに対し、 再建天守は、望楼型の構造で、大入母屋破風を基部としており、張り出しや出窓など亀山城にはない意匠が施されている。 

鉄御門
     吹揚神社社殿      今治城天守
鉄御門
吹揚神社社殿
今治城天守



江戸時代の二百二十年間、天守のない今治城の本丸には、天守の代用とされた北隅櫓が建っていた。

「 千鳥破風が一つだけ付けられた北隅櫓は天守を意識した外観になっていたという。 
築城時の天守の位置は本丸の中央付近にあったと推定されるが、再建天守はその北隅櫓跡に建てられている。 
コンクリート製の天守内部は博物館になっていて、館内は撮影禁止である。 」

最上階からはしまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができる。 
また、本丸跡の吹揚神社の社殿なども見える。 
二の丸跡の東隅に立つ二重櫓は、御金櫓(おかねやぐら)と呼ばれた東隅櫓を昭和六十年(1985)に再建したものである。

「 名称は今治城の古絵図に東隅櫓の中に御金蔵という蔵が併設されていたことによる。  外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真をもとに復元されているが、 再建時に本来なかった石垣の反りが施されてしまっている、といわれる。  御金櫓の内部は郷土出身作家による現代美術館になっていた。 」

最上階からの展望
     本丸跡      御金櫓
二の丸跡と瀬戸内海
本丸跡と山里櫓
御金櫓と東多聞櫓



江戸時代の本丸には北隅櫓の他に二基の二重隅櫓が建てられ、多門櫓によって連結されていたといわれる。 
天守閣を降り、二の丸の北西隅に向うと櫓門があり、それに接続する山里櫓がある。

「 山里櫓は平成二年(1990)に再建されたもので、、武具や古美術品の展示場になっている。 
門を通って石段を降りると、椰子が植えられているあたりに、 江戸時代には山里という庭園があり、これが櫓の名前の由来のようである。 」

堀の脇に直接舟が出入したような場所がある。  ここから堀を経て三の丸に行くには高麗門をくぐる。  江戸時代にはここも枡形になっていたのではないだろうか? 
今治城は外堀以内に侍屋敷、城門が九ヶ所、櫓は合計二十と広大な城郭だったが、 今は周囲が埋め立てられ、内堀と主郭部の石垣が残るだけである。 
ここに架かる橋はかっては木橋で、敵が攻め込んできた時には橋を落すことができるようになっていた。 
橋を渡り内掘の外に出て振り返ると山里櫓と多門櫓がつながって雄大な姿をしていた。 
右に目を向けると再建された天守閣とそれにつながる多聞櫓が見えた。 
また、内掘から海につながる水路も確認できた。 

西多聞櫓と山里櫓
     山里櫓と多聞櫓      今治城天守閣
西多聞櫓と山里櫓
山里櫓と多聞櫓
天守閣とそれにつながる多聞櫓



所在地:愛媛県今治市通町3−1−3  
JR予讃線今治駅から瀬戸内バス「今治営業所行き」で約10分、「今治城前」で下車、徒歩約3分  
今治城のスタンプは今治城天守1F(300円 9時〜17時)にて   



 戻る(日本100名城表紙)




かうんたぁ。