日本100名城 (78) 丸亀城(まるがめじょう)






丸亀城は丸亀平野の海抜六十六メートルの亀山に生駒親正が隠居城として、 慶長二年(1597)から慶長七年(1602)にかけて築城した平山城である。

「 丸亀城は高松藩の支城だったため、元和元年(1615)の一国一城令により、 破却の危機にさらされたが、時の藩主、生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し、立ち入りを厳しく制限して、 城の破却を守ったという。  寛永十七年(1640)の生駒氏のお家騒動で、出羽国矢島(現秋田県由利本荘市)に転封になり、城は廃城になる。 
寛永十八年(1641)、山崎家治が肥後国富岡より五万石で入封し、丸亀藩が立藩し、 寛永二十年(1643)から城の再建(改修)に着手した。 
幕府が家治に、瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備えるための城をつくらせたのではないかと云われ、 幕府は丸亀藩に銀三百貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事をやらせている。 
山崎家治が改修に着手したものの、跡継ぎがなく改易、その後任の京極氏が城を完成させた。 」

丸亀城はほぼ四角形の縄張で、標高六十六メートルの亀山の廻りを堀(内堀)で囲み、 内堀の周囲には侍屋敷を配置し、その周囲を外堀が方形に取り囲む形である。 
内掘に架かる石橋の先、左から大手二の門、渡り櫓、大手一の門、中央部の奥には天守閣が見える。 
石橋を渡ると、「史跡丸亀城跡」の石柱があり、その先に高麗門がある。
高麗門は、城に入る大手二の門で、この門をくぐると正面は石垣で、右側に楼門がある。   この門が大手一の門で、二の門から一の門の間は枡形虎口になって、敵の侵入を防いでいる。
生駒氏が築いた時の城の正面は南側だったが、 再建完了した京極家の時代には現在のような北側を正面とし、大手一の門と二の門が造られた。

「 大手一の門は寛文十年(1670)に建築されたもので、 藩士が太鼓を打ち、刻(とき)を知らせていたことから「太鼓門」とも呼ばれていたという。 」

大手一の門は入母屋造本瓦葺の楼門で、主要部分には、けやき材が使われている。  棟の両側に鬼瓦としゃちほこ瓦がそびえていて、国の重要文化財に指定されている。
一の門の櫓の中に入ると、板敷きで、広い空間が広がり、中に長持、駕籠、しゃちほこ瓦、 昔使われていた「時報太鼓」が展示されていた。 
城を防御するための石落としの仕掛けなども見学できる。  太鼓が打てるようになっていて、復活した時太鼓(ときのたいこ)が城下に正午(九ツ時・午刻)を告げ響き渡る。 
上から二の門を見ると石段があり、敵兵が石橋を渡ってくると、 城兵が駈け上がって弓や鉄砲が打てるようになっていた。 

丸亀城石橋周辺
     大手一の門      板敷きの間
丸亀城石橋周辺
大手一の門
板敷きの間



大手門をくぐり、左折すると正面に高い石垣が行手を阻む。  左に向う見返り坂という坂道があり、この坂を上ると三の丸。  右側の石垣は緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、 頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっている。

「 山麓から山頂まで四重に重ねられ、合わせると六十メートルにもなり、 総高としては日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は二十二メートルある。 なお、単体としての日本一高い石垣は大坂城で、僅差で上野城、共に約三十メートルの高さである。 」

石垣前に高浜虚子の 「 稲むしろあり 飯の山あり 昔今 」 という句碑がある。

「 昭和二十四年秋にここから丸亀平野をへだてて讃岐富士(飯の山)を眺めて詠んだという。  稲と飯をかけたのだろうが、当時はまだ都会は食糧難だったので、このような句になったのだろうか?  讃岐平野の豊かさを表現したものだろうが、丸亀城は出てこないのは残念である。 」

見返り坂を上ると三の丸である。 海抜五十メートル余の平地で、東方(左手)の眺めが素晴らしい。

「 飯野山(讃岐富士421m)が聳え、その手前に土器川が右(南)から北に流れ、 その北に青ノ山が横たわり、更にその北に遠望できるのは坂出市の番の州工業地帯と瀬戸大橋である。 」

三の丸の東南隅にあったのは巽櫓で、礎石の脇に「月見櫓跡」の標示板があった。

「 土器川の東と城の南方は旧高松藩領で、それを見張る櫓であるが、月見にはよい位置だったので、 月見櫓とも呼ばれた。  明治二年(1869)に三の丸の巽櫓(戌亥櫓)は火災により焼失した。 」

扇の勾配
     高浜虚子句碑      月見櫓跡
扇の勾配
高浜虚子句碑
月見櫓跡



二の丸の石垣も端正な造りで美しい。

「 丸亀城の石垣には打込みハギ、野面積み、切り込みハギなど様々な石積みが見られる。  石垣の中には△や田などの封印と呼ばれる記号が見られる。  石を割った矢穴の跡や石の表面をきれいに加工したノミ切りの跡などもある。 」

月見櫓の手前でUターンするように上ると、二の丸で、「二の丸跡」の表示板が建っている。 
ここも空地だが、三の丸同様に見晴らしはよい。

「二の丸跡」
「 二の丸は丸亀城で二番目に高い位置にある曲輪で、平成六年に現在の姿に整備されたとある。  江戸時代には石垣上に長崎櫓や番頭櫓(ばんとうやぐら)などの四棟の櫓とそれを結ぶ多聞櫓があり、 大手道には櫓門(やぐらもん)があった。 今も残っているのは二の丸井戸だけである。 」

「二の丸井戸」
「 この井戸は直径が一間(約1.8m)、深さは三十二間(約65m)で、日本一深い井戸といわれる。  丸亀城では一番高いところにあり、現在も水をたたえている。  石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れ、 この井戸の底に入っている間に石を落されて殺されたという言い伝えが残っている。 」 

二の丸石垣
     二の丸跡      二の丸井戸
二の丸石垣
二の丸跡
二の丸井戸



二の丸の先には本丸があり、江戸時代に建てられた天守閣が残っている。
天守閣は三重の小規模なものながら、三段に積み上げられた石垣の上に築かれた姿は風格があり、 国の重要文化財に指定されている。 現存する三重天守閣としては最も小さなものである。

「 京極氏の居城となった 万治三年(1660)、城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更し、 大手門から見上げる石垣の端に、三層三階の御三階櫓と呼ばれる高さは十五メートルの天守閣を建てた。 
屋根は南北棟の入母屋造り、本瓦葺きで、軒裏丸重木型、総塗込め(漆喰が塗られ)波形軒である。  一層は高さ二メートルの石垣の上に九メートルに七・二メートル、 石落としや狭間付き、西面を除き腰羽目板張り、上部塗込め()、一層屋上南北側面に唐破風付。  二層屋上東西両面に千鳥破風飾付。 三層は三・六メートルに五・四メートルの塗込め壁。  各層に武者窓を付け、各層の逓減割合はまとまりよく統一されている。 
内部は各層床板敷き、内部柱は一層が二十本、二層十四本、三層二本で、 隔柱は左右に漆柱を建てている。 用材は柘植を主とし、桧と松を混用している。 」

現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものである。  
天守に入ると兜などの展示物と歴史の案内があり、三階に上り、下を見ると、本丸と隅櫓跡の礎石が見えた。

説明板「本丸」
「 本丸には中心建物として大書院と居間等が建てられたが、御殿は明治二年(1869)に焼失、 明治六年(1873)には名東県の広島鎮台第2分営が設置され、 明治十年(1877)に現存の建物以外の櫓や城壁等の解体が始まった。
発掘調査により、それらの石垣や礎石が確認され、地盤整備を行ったが、遺跡保護のため、 本来の地面より少し高くした。 北多聞や南多聞(渡櫓)の石垣と排水路は土中に埋まるため、 その上に石垣を復元している。 」  

天守閣
     天守閣内部      本丸跡
大手門から見た天守閣
天守閣内部
本丸跡



本丸から下りると延寿閣別館がある。

「 延寿閣別館は麻布にあった旧藩主京極家の江戸屋敷の一部を移築したもので、 内部は藩政時代の大名の生活がしのばれるように昔のまま保存している。 」

ここを右に下るのが搦め手道で、下って行くと二の丸の石垣の前に、三の丸井戸がある。 
三の丸には前述の月見櫓の他、江戸時代には坤櫓(ひつじさるやぐら)、戌亥櫓(いぬいやぐら)があったという。

「 戌亥櫓は明治二年の藩邸(旧京極家屋敷)の火災により消失した。  火災で焼けた石垣は赤く焼け、柱のあった場所は黒くなっていて、藩邸が全焼した大火災の状況を生々しく伝えている。 
三の丸井戸は山崎氏時代の絵図に描かれている井戸で、深さ三十一間と記されており、抜け穴伝説のある井戸である。  明治初期の建物取り壊しの際に本丸建物の壁土や瓦が井戸内に堆積し、現在は空井戸となっている。 」

三の丸戌亥櫓跡のそばに 「 人麿の歌かしこしとおもひつつ 海のかなたの沙弥島を見る 」 と歌われた吉井勇の歌碑がある。
搦め手道を降りきったところに「搦め手口」の標柱が建っている。

「 三の丸南側の搦め手口は山崎氏時代の大手になる。  この場所は石垣を巧に配し、城内でも一番堅固に造られた場所である。  また、この石垣は加工した大きな石を用いているところがある。 」

延寿閣別館
     三の丸井戸      搦め手口
延寿閣別館
三の丸井戸
搦め手口



所在地:香川県丸亀市一番丁  
JR予讃線丸亀駅から徒歩約10分で登り口、登り口から天守まで約10分  
丸亀城のスタンプは丸亀城天守(9時〜16時30分入城は16時まで)にて  



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