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西の丸は桜の馬場の西から北に続いた部分で、家老や重臣の屋敷があり、後には倉庫や雑用舎が建てられ、
薬園も造られ、北西隅には二重の虎櫓が建っていた。
北の丸は寛文十一年(1671)の松平氏による大改修で、御殿である旧披雲閣が三の丸に移されたため、
防衛上東の丸とともに増設された曲輪である。
通路状の曲輪には延宝四年(1676)に隅櫓として月見櫓が建てられ、
その後、海城に特有の水手御門(みずのてごもん)、渡櫓、鹿櫓が建てられた。
「 月見櫓は城主の船が着くのを見る「着き見」が由来ともいう。 水手御門は正式な出入り口としての性格を持ち、城主はこの門から小舟に乗り、沖に止まった大船に向かった。 北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓は国の重要文化財に指定されている。 」
二の丸南西の隅櫓があったところには一重の櫓だったという「文櫓跡」の標示板があった。
また、二の丸北西には二重の櫓だったという「簾櫓跡」の標示板があった。
二の丸北西にはもう一つの隅櫓があり、弼櫓といい一重の櫓だった。
二の丸東北には二重の櫓だったという武櫓という隅櫓が建っていたという。
二の丸という本丸に次ぐ重要な曲輪の防備のため、石垣は大形の石材を使用している。
波で浸食された丸い石材が多い石垣は頂部が平らになりにくいので、
平石を並べて、簾櫓や多聞櫓の土台を平らにしていたという。
寛文十一年(1671) 松平頼常により城の大改修が始まり、東の丸と北の丸が増設され、
東の丸は主に米蔵で艮櫓、巽櫓などが建てられた。
本丸と二ノ丸を繋ぐ唯一の通路としては、二の丸の東南端に鞘橋が架けられていた。
「 鞘橋の長さは三十一メートル、幅は三・五五メートルで、 切妻造りの屋根で銅板葺き、そして切目のない腰板の付いた珍しい木橋で、北面に開戸が付いている。 鞘橋の名称は屋根と側壁がある廊下橋の構造をしていて、刀の鞘に見立てたことによる。 築城当初は屋根や側壁はなく、らんかん橋と呼ばれていたとようで、 文政六年(1823)に描かれた「讃岐国高松城石垣破損堀浚之覚」に屋根が描かれていることから、 江戸時代中頃に屋根付きの橋になったと推定されている。 藩政時代には二十年毎に橋の架け替えが行われていたと伝えられ、 現在の鞘橋は明治十七年(1884)天守閣取り壊しの際に建て替えられたもので、 昭和四十五年(1970)〜四十六年(1971)に大規模な解体復元修理が行われた。 」
現在の鞘橋にも銅板葺の屋根がつけられており、
堀には海水が引かれていることから、橋脚は腐食のために石材で造られていて、
橋脚は一脚当たり三本の御影石製の柱と木橋の梁によって支えられている。
鞘橋の東側(三の丸南西隅)の石垣は鋭角な角石垣になっている。
「 海辺を浚渫(しゅんせつ)して堀にしたため、石垣の地盤は弱いので、 石垣の角を直角でなく、七十五〜八十度の鋭角にして崩れにくくしている。 」
二の丸から三の丸へは二間一口の櫓門の鉄門(くろがねもん)があり、敵の侵入に備えていた。
「 鉄門の名は階下の柱や扉など、外側面に鉄板が一面に打ち付けられていて、 外側が黒塗りの板張りになっていることから付けられたという。 鉄門は城で一番厳重な防備を求められる城門に付けられ、重要な場所だけに戦場の火気を嫌い、 一面に鉄板を貼ったとされるものである。 」
黒門には二の丸東北の隅櫓の一つ、一重の櫓の黒鉄櫓があり、
武櫓と同様、大形の石材を使用して、重要な曲輪の防備に配していた。
現在は門はないが、石柱跡の石垣を見るとかなりなものだったことが分かる。
三の丸に入ると海水導入門があり、堀の水は 百%海水といい、愛媛県の今治城など、一部海水を引き入れている城もあるが、 海水だけで水堀を構成している城は日本で高松城だけである。
「 潮の干満を水門の開閉により水位を調整するというハイテク技術を取り入れた凄い城である。
堀には鯉でなく、海の魚が泳いでいて、タイやチヌ、ボラにカワハギ、時にはフグまで見ることができる。 」
公園の入口に「鯛願成就」の幟があったが、ここではタイにエサをやることができ、
大願成就と掛け、願いを込めて投げ込めばご利益が!あるとのこと。
寛文十一年(1671)の松平頼常による高松城の大改修の際、御殿である旧披雲閣が三の丸に移された。
その際、御殿の北部に小規模な築山や植え込みがなされた簡素な庭が造られた。
さすがは、親藩松平侯の内苑であるが、隠居所として造られた栗林公園(広大なお林御殿・栗林荘)の庭とは較べくもなかった。
三の丸には披雲閣と呼ばれる書院風建物の御殿があったが、明治五年(1872)に老朽化によって取り壊された。
現在ある披雲閣は松平家高松別邸として、当時の金額で十五万円と三年の歳月をかけて大正六年(1917)に竣工したもので、
江戸時代の半分の規模である。
「 本館は建築面積千九百十六平方メートルの和風木造建築で、一部を二階建とするほか平屋建。 表玄関、蘇鉄の間、大書院、槇の間、松の間、桐の間、杉の間などの諸室を渡廊下で結び、 大小の中庭を設けた複雑な平面構成になる。 大正時代の建造物として、平成二十四年(2012)に国の重要文化財に指定された。 昭和天皇が宿泊したり、アメリカ軍に接収されたりしたが、高松市が譲り受け、現在は貸会場として市民に利用されている。 」
披雲閣の再建に合わせて「内苑御庭」という枯山水の庭が作造された。
説明板「内苑御庭」
「 現在の内苑御庭のほとんどが、大正六年、現披雲閣の建築と軌を一にして作庭された大正時代の大名庭園である。
東北から南西に向かってほぼ対角線に枯川が流れ、北方に二つ、西方に離れて一つ、計三つの築山を設けた築山枯れ山水の庭である。
庭木は香川県の風土を最も適したクロマツとウバメガシを用い、
また、庵治石という名石を近隣に持っていたことから燈籠、手水鉢、井筒、飛石・沓脱ぎ石等、
超一級品の大ぶりの石造物をところ狭しと配置している。 」
その先に「桜の馬場」標示板があった。
「 桜の馬場(帯曲輪)はその名のとおり桜が植えられ、馬場があったところでL字型の地形だった。 本丸、三の丸の南を守る部分を桜の馬場、 本丸、二の丸の西を守る部分を西の丸と呼ばれ、それらが連なりL字型になっていて、帯曲輪と呼ばれていた。 桜の馬場は、南、東、西とも中堀によって囲まれ、 生駒氏時代には三の丸に連結する土橋から東は対面所と下台所、 大手門から西には近習者の屋敷や局屋敷が並んでいたので、馬場はなかったが、 松平頼常が三の丸に豪壮な御殿(旧披雲閣)を造営した時、 桜の馬場のこれらの屋敷は取り壊し、その跡地の広大な広場を馬場(藩士たちの馬の訓練場)にすると同時に 地割り替えをした。 」
桜の馬場の南西隅には三重櫓の烏櫓、東南隅に三重の太鼓櫓、そして虎櫓などがあったが、
今は影も形もなく、帯曲輪の半分は埋め立てられ中央通りになっている。
現在、太鼓櫓のあったところには国の重要文化財に指定された艮櫓(丑寅櫓)が建っている。
「 延宝五年(1677)、高松城の東の丸の東北の隅に建てられた三重櫓で、 北東の方角の丑寅(艮)に建っていたことから、艮櫓と名付けられ、帆船が出入りする港を監視する役目を果たしていた。 」
東の丸は三の丸の東側の中堀から外堀の東浜舟入りまでの間に
寛文十一年(1671)に築かれ、北東隅に三重の艮櫓、南東隅に巽櫓が建てられた。
北側には米蔵が建てられ、近郊から納入の年貢米が保管された。
南側には作事丸(土木建築工事関係の倉庫や小屋)が建てられた。
東の丸は明治以降、艮櫓の櫓台と石垣以外は埋め立てられ、
現在は香川県民ホールや香川県立ミュージアム、松平公益会などが建つ市街地に変わった。
艮櫓は日本国有鉄道が所有し、東の丸跡の香川県民ホールの近くにあったが、
昭和四十年(1965)、高松市に移管され、昭和四十二年(1967)に現在地移築された。 」
艮櫓はその際、石落としの取り付けなどの関係上、建物を九十度回転させている。
「 艮櫓の一階隅部に大型の石落とし(袴腰型石落とし)が設けられている。
屋根には三角形の千鳥破風や中央部を上にふくらんだ円弧状とし、両脇部分を凹曲線上に反転させた形の唐破があり、
屋根の破風に取り付けられた妻飾りの蕪(かぶら)懸魚や兎毛通(うけのとうし)懸魚が、
火伏せのまじないとして取り付けられている。
鉄砲狭間は、窓下の壁に設けられ、五寸(約15cm)四方の大きさで、
壁は白漆喰の総塗籠の防火壁でかつ、優雅な姿を見せている。
艮櫓の内部は一本の柱が三階まで通しになっている他、
一階から二階、二階から三階へと二階ずつ通し柱になって全体を支えている。
階段は敵の侵入を防ぐため、階段の傾斜がきつく設計されている。
また、千鳥破風のある破風の間には採光のために格子が設けられていて、有事の際には射撃の小陣地になる。 」
桜の馬場の中程には「桜御門跡」の標示板があった。
「 寛文十一年の大改修までは桜の馬場の南中(現在の南西隅)に大手門があり桜御門と呼ばれていたが、 松平頼常により御殿の披雲閣が三の丸に移された時、 南正面の大手門(桜御門)が内城域の正面となったため廃止され、中堀に架かっていた橋を撤去し、 東の桜の馬場東端に旭橋、西側には翠橋(みどりばし)を架け、三の丸への防備を固めた。 」
桜御門跡の石垣は、かつての正面玄関を飾るに相応しく、化粧石らしき巨石をうまく配置していた。
中掘に架かる旭橋は堀を斜めに渡る筋違橋(すじかいばし)といわれるもので、
橋を渡る敵兵は狭い橋上で縦に並ばされることになり、
それを城内から狙い打ちにする横矢掛けが出来る仕掛けになっている。
寛文十一年(1671)に架けられた橋は木橋だったが、明治四十五年に石造りの石橋になった。
旭橋を渡ると新たな大手門の旭門があるが、敵を三方から攻撃できる桝形構造の虎口である。
「 旭門は高麗門で、その先の右側に櫓門があり、桝形を形成していた。 高麗門は、親柱(本柱)の背後に控柱を立て、本柱の大屋根に直交するように、 それぞれの控柱上にも小屋根が載る形式で、屋根はいずれも切妻屋根となる。 」
旭門正面の石垣は立派である。 その右側にかっては太鼓門の櫓門が建っていた。
桝形北面には埋門(うずめもん)があり、防備上の配慮が施されている。
「 隠門(かくしもん)の別称があるように、石垣をトンネル状に構築した珍しい門で、 普段は通路として使用されるが、戦闘時にはここを土砂などで埋めることを想定して造られた小さな門である。 石垣の間に、あるいは石垣に空けた穴に小さな門を造り、上に土塀を渡した城門で「穴門」ともいう。 狭くて大軍が通過できないようになっていて、枡形に入った敵兵を背後から攻撃したり 藩主の非常時の脱出口として、また、裏口として使用された。 」
本丸は城のほぼ中央に位置し、周りを内堀に囲まれ他の曲輪とは完全に独立している。
「 外部とは堀に掛かる長さ十六間(約30m)の鞘橋だけで繋がっていて、 橋を落とせば外部からの進入路を断つことができた。 この構造は防備に優れるが一旦橋を落としてしまうと内部にいる人間は逃げ場を失ってしまうという欠点があるが、 高松城の場合は海に面していることもあり、堀を通じて海上への脱出が可能であった。 」
平成十九年(2007)から天守台の解体、補強、積み直し工事を開始され、
訪れた時は解体した石が番号を付けて積まれていて、鞘橋の途中から通行禁止で、
本丸の様子はそこからか、三の丸から遠望するしかなかった。
本丸は面積が狭いため、御殿などの居住施設はなく、多聞櫓で囲まれた天守があるのみであった。
天守台は本丸の東端に突き出していて、三の丸の方から見ると天守が海上に浮いているように見えたという。
「 天守は独立式層塔型の三重四階、地下一階で、
初層平面が東西十三間二尺(約26.2m)×南北十二間二(約24.2メートル)、高さは十三間半(約24.5m)あり、
現存する三重五階の高知城天守や松山城の天守を凌ぎ四国最大の規模だった。
最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、
一重目も天守台から外には張り出させて石落としを開いていたと考えられ、
四階平面が三階平面より大きい、小倉城や岩国城の天守のように唐造りだった。
一重目と二重目の比翼入母屋破風と唐破風、四階の火灯窓などに特徴があった。
創建時の天守は下見板張りの黒い外観だったが、寛文十一年(1671)の大改修の時、
白漆喰総塗籠の天守に改築されたと思われる。
天守は老朽化により明治十七年(1884)に解体され、
大正九年(1920)に松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立されたが、
今回の天守台石垣の解体修復工事に伴い、玉藻廟はすべて解体された。
平成二十四年(2012)に天守台補強工事が完了し、
平成二十五年(2013)から天守台の一般公開が再開した。 」
所在地:香川県高松市玉藻町2−1
JR予讃線・高徳線高松駅から徒歩約3分
高松城のスタンプは高松城東入口、同西入口、玉藻公園管理事務所にある