日本100名城 (76) 徳島城(とくしまじょう)
徳島城は渭山に築かれた蜂須賀氏の阿波支配の拠点となる城である。
「 天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が、
阿波国十八万六千石を賜り、吉野川河口の標高六十二メートルの渭山(いのやま)に大規模な平山城を築造し、
一年半後の天正十四年(1586)に完成したのが徳島城である。
江戸幕府開府により、徳島藩蜂須賀氏二十五万石の居城となり、明治維新を迎えている。
山頂の本丸や東二の丸、西二の丸、西三の丸からなる詰の城(山城)部分と、
本丸御殿がおかれた麓の御屋敷と呼ばれた部分からなる、戦国時代を思わせる縄張りだった。
明治六年(1873)に発布された廃城令により、明治八年(1875)に鷲之門を除く御三階櫓以下、
城内のすべての建築物が撤去されたが、石垣の大部分は残っている。
城跡のかなりの部分は市街地化されたが、残った部分は徳島中央公園として開放されている。」
JR徳島駅から東南に線路に沿って進むと、城跡に入る陸橋があるが、その麓に野口雨情の歌碑がある。
昭和十一年二月二十一日、この地を訪れた際に詠まれた歌で、
「 むかしを忍んで徳島城の 松に松風絶へやせぬ 雨情 」 と刻まれている。
徳島城の山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していた。
西から順に、三の丸、西二の丸、本丸、東二の丸である。
創建当時の天守は元和年間(1615〜1624)に取り壊されたといわれ、
その後、天守は山頂の本丸ではなく、一段下がった東二の丸に建てられたが、これは極めて珍しい例だった。
「 東二の丸天守は、天守破却後に天守の代用として建てられたもので、当時は御三階櫓と呼ばれていたようで、
三重三階建てで、櫓台はなく初重平面形は正方形。
下から七間四方、五間四方、三間四方といった、層塔型の特徴である一定の逓減率があるが、
外観は望楼型といういわゆる復古型などと呼ばれるものである。
外観意匠は全面下見板張で、破風は三重目の入母屋破風のほかに一重目に向唐破風と大入母屋破風が付けられていた。
明治六年(1873)の廃城令により明治八年(1875)に取り壊された。 」
城内を巡る石垣は阿波の青石と呼ばれる緑色片岩(りょくしょくへんがん)によって築かれていて、
徳島城の特色の一つである。
山麓の御屋敷と称された部分は、南、東、北にコの字状の「堀川」という水掘で囲まれていた。
御屋敷には表御殿が造られたが、現在も当時のまま残り、国の名勝庭園に指定されている。
築山泉水部と枯山水部からなり、徳島城の石垣に使われている緑色片岩はこの庭園でも見られる。
御屋敷の南面には大手枡形の黒門跡の石垣が残っている。
城の大手門にあたる鷲の門(わしのもん)は黒門外部の三木郭に構えられた門で、
明治八年(1875)の徳島城の建物解体後も唯一残されていたが、
昭和二十年(1945)の戦災で焼失、その後、平成元年に再建された。
鷲の門の先の堀には下乗橋が架かり、その先は枡形になっていて、太鼓櫓があったという。
徳島市立徳島城博物館には、御殿復元模型が常設展示されている。
所在地:徳島市徳島町城内1ほか
JR徳島線・牟岐線徳島駅から徒歩約8分
徳島城のスタンプは徳島市立徳島城博物館の受付にある
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