日本100名城 (75) 萩城(はぎじょう)





 

萩城は海と指月山を背後の守りとした長州藩毛利氏の堅城である。

「 関ヶ原で敗れた毛利輝元は、広島城を明け渡し、慶長九年(1608)から同十三年(1608)にかけて、 日本海に島状に突き出した標高百四十三メートルの指月山とその麓の三角州に萩城を築いた。 
指月山の山頂に詰丸(山城)、麓には幅広の幅二十間(約40m)の水堀で区切られた本丸、二の丸、三の丸が配置された。
慶長期の築城であるが、全体としては戦国時代の城郭的な構成である。 」

本丸は東西約二百メートル、南北約百四十五メートルの広さで、本丸御殿を中心に南西に天守、 南東に着見櫓、北東隅に井上櫓を配していた。
正面となる南側の幅広の水堀には極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)が架かり、その先に本丸門がある。
本丸門は、内側は渡櫓門、外側は高麗門で構成される内枡形の虎口である。
天守台に続く石垣の脇に設けられた雁木(石段)は、全国でも最大規模のものである。 

幅広の水堀
     本丸門(内側の渡櫓門跡)      雁木(石段)
幅広の水堀と極楽橋
本丸門(内側の渡櫓門跡)
雁木(石段)



天守は五階五層の複合式望楼型で、高さ約二十一メートル、 白漆喰の総塗籠で窓は銅板を貼った突き上げ戸を備えていたが、明治維新後に壊されてしまった。 
高さは六メートルの天守台は、本丸南西隅に突き出す形で築かれ、 勾配のゆるやかな裾から上に行くに従って急勾配に立ちあがっていく「扇の勾配」と呼ばれる、美しい反りを持つものだが、 これは三角州の地盤の強度を補うため底面を広げることで荷重を分散させる工夫である。 
本丸御殿は藩主居館と政庁を兼ねていて、二百五十年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点だったが、 幕末の文久三年(1863)、毛利敬親が幕府の許可なく、藩庁を山口城に移されてからは萩城の重要性は薄れていった。
明治維新後の明治七年(1874)、建物は破却され、天守台や石垣、水掘のみが残った。 
本丸跡には明治十二年(1872)に志都岐山神社が建立され、 明治二十年(1887)には藩主別邸の花江御殿から茶室の花江茶亭が移築された。 

萩城天守閣
     天守台      花江茶亭
明治初期の萩城天守閣
天守台
花江茶亭



二の丸は本丸と指月山を囲むように造られた曲輪で、十二の櫓と三十四の井戸、蔵元役場、寺社、 六代藩主宗広より東園と名付けられた回遊式庭園などがあった。 
菊ヶ浜に面した東側には潮入門櫓やいくつかの城門があったが、潮入門の石垣の上には銃眼土塀が復元されている。  銃眼とは鉄砲狭間のことである。 その他の門も石垣は残っている。 
三の丸は重臣の居住区で、厚狭毛利家の萩屋敷も建てられていた。 
旧厚狭毛利家屋敷長屋は二の丸南門の近くにあり、桁行五十一・五メートル、 梁間五メートルで、萩に残る武家屋敷で最大のもので、国の重要文化財に指定されている。 

東園
     潮入門櫓      厚狭毛利家長屋
東園
潮入門櫓
厚狭毛利家長屋



三の丸は堀内と呼ばれたが、往時の屋敷門が残っている。 
口羽家は萩藩の寄組士で、萩城下に残る上級武士の屋敷として、国の重要文化財に指定されている。 
三の丸から城下町に出入りする門は北、中、南の三つがあり、南は平安古の総門と呼ばれ、 外掘に架けられた玄武岩の石橋、平安橋は現存している。 
北の総門と外塀及び船着き場は復元された。

「 外掘の当初の幅は二十間あったが、城下町の発展で埋め立てられ、 天文四年(1739)には幅八間(16m)になった。 」

城下町は商人や下級武士が住む町で、菊屋や久保田家の大商人の家がある他、 木戸孝允旧宅や青木周弼旧宅、高杉晋作誕生地があり、高杉晋作立志像や久坂玄瑞進撃像がある。 

口羽家住宅
     北の総門      高杉晋作誕生地
口羽家住宅
復元された北の総門
高杉晋作誕生地



萩城の詳細(訪問記)は   「古城めぐり 山口県3(萩城)」をご覧ください。

所在地:山口県萩市堀内字旧城1−1   
JR東萩駅から萩市内循環「まあーるバス(西)回り」で、萩城跡・指月公園入口で下車、徒歩約4分  
車は指月第一駐車場に入れると近い   
萩城のスタンプは本丸入口の料金所にて 
営業時間 4月〜10月 8時〜18時30分、11月〜2月 8時30分〜16時30分、3月8時30分〜18時 



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かうんたぁ。