日本100名城 (74) 岩国城(いわくにじょう)






関ヶ原の戦い後、岩国に転封された吉川広家が山陽道の東を固める要害の地に築城したのが岩国城である。

「 岩国城は錦川に面した横山山頂の城郭部分と山麓に居館(御土居)で構成されていた。 
居館と城下は錦川に架かるアーチ型五連の錦帯橋で結ばれていた。 
山頂の城郭は城山の尾根沿いに長さ百八十米、横に百八米〜五十四米、本丸を中心に南西に二の丸、 北東に北の丸が配され、高さは五・四米の総石垣で築かれ、要所に五つの櫓、 折り回し大門が二つ、埋門が一つ、井戸が二つがある厳重な造りの山城であった。 
本丸に築かれた天守は四重六階、三階よりも四階。五階よりも六階を大きく張出した特異な形状で、南蛮造(唐造)と呼ばれた。  完成からわずか七年後の元和元年(1615)、徳川幕府の一国一城令により、 山上の天守を始めとする建物や石垣(城郭部分)が破却された。 」

ロープウエイで上ってきたが、城郭部は築城当時の石垣の一部を残しているだけで、遺跡は残っていない。
ロープウエイを降りると、城跡遊歩道がある。 道を歩き、出丸跡の石段を上ると大手門跡である。 
その先が二の丸跡で、今は公園になっている。 
右手に行くと天守閣があるが、この一帯が本丸跡である。 
城跡は荒涼たること三百六十年、昭和三十七年(1962)八月に「天守構造図」という絵図に基づき、 高さ二十メートル余の天守閣はコンクリート製で再建された。
その際、麓(錦帯橋側)から見えるように、天守閣は本来の位置から南に五十メートル離れた場所に建てられた。 
再建された天守閣の北側五十メートルのところに、平成七年(1995)に発掘し、復元された天守台がある。

説明板「天守台」
「 天守台は古式穴太積みを基本にしながら、戦国時代、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。  天守台の石垣は大きめの石と隙間に詰めた小さな石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。  その隅部には反りがなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、 見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重きを置いた造りになっている。 」

(左)出丸跡、(正面)二の丸石垣
     天守閣      天守台
(左)出丸跡、(正面)二の丸石垣
再建された天守閣
天守台



天守台の近くには大釣井がある。

説明板「大釣井(おおつるい)」
「 この大井戸は慶長十三年(1609)築城と同時につくられたもので、 非常用の武器、弾薬等の収納をはかるとともに敵に包囲されたり、 落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられる。 」

岩国城は、一国一城令で山頂の城郭部が破却された後は、御土居(藩主の居宅)が岩国領の陣屋として、 また、慶応四年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。 
明治十八年(1885)に土居(居館)跡が吉香公園になり、公園内には吉川広喜像が建っている。 
錦雲閣(きんうんかく)は、明治十八年(1885)、吉香神社の絵馬堂として旧東矢倉の位置に建てられたもので、外観は櫓のようである。 

大釣井
     吉川広喜像      錦雲閣
大釣井
吉川広喜像
錦雲閣



岩国藩第三代目の当主・吉川広喜は、錦川出水のたびに交通が途絶されるのを憂い、 大洪水にも流されない橋を架けて、住民の苦難を救おうとして、延宝元年(1673)に構築したのが錦帯橋である。

「 五連のアーチからなるこの橋は、全長百九十三・三米、幅員五米で、 石積の橋脚に五連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、継手や仕口といった組木の技術により、釘一本も使わずに造られている。  日本三奇橋のひとつとして名高いだけでなく、木造の五連の橋としては世界的には類を見ない珍しい木造アーチ橋として知られる。  中国杭州の西湖の堤に架かる連なった橋からヒントを得て創建されたといわれ、西湖の錦帯橋とは姉妹橋となっている。 
昭和二十五年(1950)の台風で全て流失したため、現在の橋は昭和二十八年(1953)に建造当時のまま復元されたものである。 」

錦川で佐々木小次郎がつばめ返しの技を究めたという伝説があり、巌流像がある。 
民家の前に吉川経家公忌魂碑が建っている。

説明板「吉川経家」
「 天正八年(1673)の羽柴秀吉による鳥取城攻めの際、鳥取城主、山名豊国は降伏し、城外に脱出したが、 城内の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家を鳥取城の城督とした。  天正九年三月、経家が入城して調査すると貯米は二ヶ月分しかなく、食料の補給を図ったが、 輸送船はすべて秀吉軍により捕獲され、時期を追う度に餓死者が続出したので、経家は開城を余儀なくされ、 城兵全員の救助を条件に切腹し、三十五才の命を絶った。 その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。  弔魂碑はこの英魂を弔うため、昭和十四年に建立された。 礎石に鳥取城の石十二個が使用されている。  この場所は江戸時代に経家の子孫・石見吉川氏の屋敷のあったところである。 」

錦帯橋
     巌流像      吉川経家公忌魂碑
錦帯橋と岩国城天守(中央奥)
巌流(佐々木小次郎)像
吉川経家公忌魂碑



岩国城の詳細(訪問記)は、  古城めぐり「岩国城」を、ご覧ください。

所在地 山口県岩国市横山3 
JR山陽本線岩国駅から市営バス「錦帯橋行き」で、約20分、錦帯橋で下車、又は、山陽新幹線新岩国駅からバスで錦帯橋下車  
錦帯橋から徒歩10分で岩国城ロープウエイ「城山山麓」、ロープウエイ約3分「山頂」下車、徒歩約5分で天守  
岩国城のスタンプは天守一階受付(0827−41−1477 9時〜16時45分)にある 



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かうんたぁ。