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天守台の近くには大釣井がある。
説明板「大釣井(おおつるい)」
「 この大井戸は慶長十三年(1609)築城と同時につくられたもので、
非常用の武器、弾薬等の収納をはかるとともに敵に包囲されたり、
落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられる。 」
岩国城は、一国一城令で山頂の城郭部が破却された後は、御土居(藩主の居宅)が岩国領の陣屋として、
また、慶応四年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。
明治十八年(1885)に土居(居館)跡が吉香公園になり、公園内には吉川広喜像が建っている。
錦雲閣(きんうんかく)は、明治十八年(1885)、吉香神社の絵馬堂として旧東矢倉の位置に建てられたもので、外観は櫓のようである。
岩国藩第三代目の当主・吉川広喜は、錦川出水のたびに交通が途絶されるのを憂い、 大洪水にも流されない橋を架けて、住民の苦難を救おうとして、延宝元年(1673)に構築したのが錦帯橋である。
「 五連のアーチからなるこの橋は、全長百九十三・三米、幅員五米で、
石積の橋脚に五連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、継手や仕口といった組木の技術により、釘一本も使わずに造られている。
日本三奇橋のひとつとして名高いだけでなく、木造の五連の橋としては世界的には類を見ない珍しい木造アーチ橋として知られる。
中国杭州の西湖の堤に架かる連なった橋からヒントを得て創建されたといわれ、西湖の錦帯橋とは姉妹橋となっている。
昭和二十五年(1950)の台風で全て流失したため、現在の橋は昭和二十八年(1953)に建造当時のまま復元されたものである。 」
錦川で佐々木小次郎がつばめ返しの技を究めたという伝説があり、巌流像がある。
民家の前に吉川経家公忌魂碑が建っている。
説明板「吉川経家」
「 天正八年(1673)の羽柴秀吉による鳥取城攻めの際、鳥取城主、山名豊国は降伏し、城外に脱出したが、
城内の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家を鳥取城の城督とした。
天正九年三月、経家が入城して調査すると貯米は二ヶ月分しかなく、食料の補給を図ったが、
輸送船はすべて秀吉軍により捕獲され、時期を追う度に餓死者が続出したので、経家は開城を余儀なくされ、
城兵全員の救助を条件に切腹し、三十五才の命を絶った。 その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。
弔魂碑はこの英魂を弔うため、昭和十四年に建立された。 礎石に鳥取城の石十二個が使用されている。
この場所は江戸時代に経家の子孫・石見吉川氏の屋敷のあったところである。 」
岩国城の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「岩国城」を、ご覧ください。
所在地 山口県岩国市横山3
JR山陽本線岩国駅から市営バス「錦帯橋行き」で、約20分、錦帯橋で下車、又は、山陽新幹線新岩国駅からバスで錦帯橋下車
錦帯橋から徒歩10分で岩国城ロープウエイ「城山山麓」、ロープウエイ約3分「山頂」下車、徒歩約5分で天守
岩国城のスタンプは天守一階受付(0827−41−1477 9時〜16時45分)にある