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表御門をくぐると、右側の平櫓に多聞櫓がつながり、その先に太鼓櫓がある。
「 太鼓櫓は桁行八・四九メートル、梁間七・七六メートル、 棟高十・六〇メートルの木造二重二階隅櫓で、入母屋造、本瓦葺である。 」
多聞櫓は桁行六十七・八十六メートル、梁間四・九十三メートル、棟高五・一三メートルの木造一重渡櫓で、切妻造、本瓦葺である。
平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は天正期末頃と推定され、
このうち太鼓櫓は十七世紀初期に改修されたものの、三棟とも江戸時代を通して、
二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していた。
しかし、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、
残った太鼓櫓や多聞櫓東半分も昭和二十年の原爆被爆によって倒壊炎上した。
これらの建物は平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成六年八月に完成したものである。 」
表御門をくぐり、二の丸を左に曲がると、橋幅ほどのところ(土橋)を通ると本丸に入る。
二の丸から本丸に入るところには中御門があり、
ここには中御門跡の石柱があり、石垣には被爆した時の火災で変色した石がある。
「 二の丸が馬出しという防御施設で小さかったが、本丸は広い面積を誇る。
江戸時代には中御門をくぐると右側に米蔵があり、左手に馬場や弓場があった。
現在広島護国神社になっている場所である。
本丸北半分は南半分より一段高く、現在石段があるが、このあたりに冠木門があり、右側に本丸御殿が建っていた。
元治元年(1864) 第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となるが、
戊辰戦争では広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。 明治四年(1871)の廃藩置県により、
本丸に広島県庁舎が設置されたが、すぐに三の丸に移転し、その後に陸軍の施設が建てられるようになる。
なお、明治七年(1874)に本丸および二の丸で起こった火災で、本丸御殿が全焼している。 」
「明治二十七八年広島大本営跡」の石碑が建ち、礎石群がある。 ここは明治天皇が日清戦争時に指揮をとったところである。
「 日清戦争が起きると、明治二十七年(1894)が東京(皇居内)に大本営が置かれたが、
広島が当時鉄道の開通する最西端だったこと、大型船が停泊できる宇品港があったことから、広島に移され、
明治天皇が指揮するため九月十五日にここに移り、行宮が置かれ、非常時に備え縮景園は大本営副営となった。
天皇の居所は清風館があてられ、大本営の左側には昭憲皇太后御座所が置かれた。
明治天皇は下関条約が締結された後の明治二十八年九月まで、この地で指揮をとった後、東京に還幸した。
広島大本営は戦争処理後の明治二十九年四月に解散となった。 」
広島城の天守は本丸の北西の隅に建ってられた五重五階の望楼型天守で、五重の大天守から渡櫓で、 南と東の二つの三重小天守を連結する、複合連結式天守であった。
「 大天守の高さは十七間六尺(約32.7m)の望楼型で、 黒漆塗りの下見板が張られた壁面は秀吉の大坂城天守を模したといわれ、 屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた。 内部に天井が張られず、丸太の梁がむき出しのままで、浅野氏の時代には物置として使用され、 明治以降は陸軍の書類庫として使用されたという。 明治六年(1837)の廃城令により城のほとんどの建物が解体され、その際、二つの小天守は撤去されたが、 大天守と渡櫓だけは残された。 しかし、昭和二十年(1945)八月、大天守と渡櫓は原爆により倒壊した。 」
大天守は昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリート構造で再建され、内部は広島城博物館になっている。
東小天守台には基礎が残っている。
南小天守と渡櫓跡の東側には「旧天守閣の礎石」の説明板がある。
「 昭和33年天守閣再建された際、天守閣柱下の礎石を掘り起こし、
原形のまま、ここに移したもので、玉石排水溝の内側が天守台の大きなである。
一段低くすえてある石は今も天守台地下に埋めてある礎石の位置を示している。 」
所在地: 広島市中区基町21−1
JR山陽本線・山陽新幹線広島駅から広島市内線で約15分、紙屋町東、同西で下車、徒歩約15分
広島城のスタンプは広島城天守1Fのギャラリーにあるので、入城料を払い、中に入らないと押すことが出来ない
(3月〜11月9時〜18時、入館は17時30分、12月〜2月9時〜17時入館は16時30分までに。 370円)