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「毛利元就公墓所参道」の石柱がある鳥居をくぐり、道なりにすすむ。
この道は郡山の裾を左に廻るように続いていて、やがて「毛利元就公墓所」の石柱があり、石段の先には鳥居が建っている。
石段を上り、鳥居をくぐって進むと、「洞春寺跡」の石柱があり、
その先に墓所に上る石段がありその先に「元就の百万一心」の石碑が建っている。
「 元就が郡山城築城の際、人柱に代え、大石を埋めた伝説に由来し、 昭和六年に建立された元就の百万一心(共同一致)の理念を示す石碑である。 」
毛利元就は元亀二年(1571)に七十一歳で郡山城で亡くなり、翌年、菩提寺として洞春寺が建立され、
境内に墓が建てられた。 下段には先祖の合墓と、元就の兄興元、興元の長子、幸松丸、隆元夫人の墓が並ぶ。
墓所の左に「しろあとのぼり道」の石柱と「郡山城跡(本丸)登山口」の大きな道標があるので、 石畳を上る。 「左郡山登山道 右嘯岳禅師墓」の石標があるので、右に進むと墓がある。
「 嘯岳禅師は永保三年(1560)明から帰国し、丹波高源寺、京都建仁寺などに歴任した。 竹原の妙法寺から元就はしばしば招いていたが、元就が逝去すると導師を勤め、菩提寺の洞春寺の開山になった。 慶長四年(1599)に没。 この墓は、天明八年(1788)に山口の洞春寺が旧洞春寺の境内に建立したものである。 」
道を戻ると、その先は赤土が露出した道で、
上って行くと「郡山第2古墳」その先に「郡山第1古墳」の道標があるが、直進する。
少し急な坂になるが、右にカーブすると、「本丸へ五三十米」の道標があり、眼下には市街地が見えた。
その先は台風の影響か、道に木が横倒しになっていた。
その先は木で階段が造られているところが二ヶ所、樹木の根が道まではみだしているところがある。
道標がある所を過ぎると、「左釣井の壇 右本丸」の石柱と「←釣井の壇 姫丸の壇 本丸100→」の道標が建っている。
また、右側には「御蔵屋敷跡」の石柱がある。
「御蔵屋敷跡」の石柱の隣に「御蔵屋敷跡」の説明板がある。
御蔵屋敷あったのは三の丸から連なる帯曲輪で、御蔵屋敷は兵糧庫だったようである。
説明板「御蔵屋敷跡」
「 御蔵屋敷跡は東西約20m、南北約30m、面積600uの広い敷地を持つ。
北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じている。
この屋敷の東側に多くの散乱した石が高い石垣があったと想像させる。
さらにその上の曲輪で通路沿いの一部に石垣(高さ12m、長さ35m)が残って、当時をしのばせている。
さらにその一段上が二の丸となる。 郡山古城図(山口常栄寺蔵)に「御蔵」と書かれているが、
それがこの地と思われる。 」
釣井(つりい)の壇へ行くと、井戸があり、説明板があった。
「 釣井の壇は本丸の西側にある一段の曲輪で、長さ75m、幅15m、面積約1000uの長大な曲輪である。 北に姫丸の壇、南は御蔵屋敷に通じ、ここから東側二段上が本丸である。 直径25mの石組井戸があり、本丸に最も近い水源である。 この井戸は現在埋もれて深さ約4mになって水は湧いていないが、 埋もれた土を掘ればかってのように水をたたえると思える。 」
釣井の壇の右側の細い道を行くと「姫の丸跡」の石柱と説明板がある。
「 姫丸の壇は本丸の北にある七段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。
姫の丸は本丸の北に伸びる峰にあり、基部の段は通路で、
ここから北へ三段もほとんど比高差をもたず連なり、さらに北に三段あるが、
主要には基部の三段が機能していたと思われる。
基部の両側には一部石垣が残っている。
この壇に基部を置いた本丸の石垣の中に元就築城のとき、
百万一心の礎石を埋めたとの伝説があり、文化十三年(1816)夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、
拓本をとり、持ち帰ったと伝えている。 」
左側の急な階段を上ると、「釜屋之壇跡」の石柱があり、 左手には「←姫丸の壇 厩の壇↓ 羽子の壇→」の道標が建っている。
説明板「釜屋の壇」
「 釜屋の壇は20mX24mで、面積は約300uの台形をなし、本丸から15m下にあり、
北は姫丸の壇、南は厩の壇へとそれぞれ通路が続いている。
この厩の壇の郭群はこれからそれぞれ2mから4mの比高差をもって五段続いているが、
この段の面積は50uから150uと小さく、石垣も見られない。 」
釜屋(かまや)の壇は本丸から15m下がった北側に位置し、六つの段で形成される曲輪群で炊事場があった。 ここから北へ向かうと羽子の丸へ出る。
「 羽子の丸は本丸の艮(うしとら、北東)の方角にあり、詰めの丸的な役割を与えられた独立的な曲輪で、 釜屋の壇とは幅七メートル、深さ三メートルの堀切で隔てられている。 曲輪数は九段。 」
道標に従い、厩の壇に向うと「厩之壇跡」の石柱があり、その左側に説明板がある。
厩(うまや)の壇は十一段、馬場は九段の曲輪群である。
説明板
「 本丸の東南方の長さ約400mにも達する長大な尾根の基部にあって、
17mと24mの段から尾根に沿って七段とそれから北に分れる四段の曲輪からなる。
最大の曲輪は尾根上中央の基部から三番目の曲輪で、
約410uの広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。
北側の四段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。
なお、基部の曲輪から釜屋の檀へは通路がのび、南側の段にも通路があり、幅3mから5mの付曲輪がある。
この南側下の段が馬場と呼ばれていることから、厩の檀には厩舎があったところと考えられる。 」
その先には「←釜屋の檀 厩の檀 本丸 三の丸→」の道標が建っているので、 三の丸の方向に歩くと、「三の丸跡」の石柱の奥に、説明板がある。
「 三の丸は城内で最大の曲輪である。 曲輪内は土塁や削り出し東によりさらに四段に分れている。 二の丸とは約35m下にあって、東西40m、南北47mの広さがある。 西の段と南の段は石塁でへだて、北の段とも1mの比高差を持たせて石垣で画している。 この西の段からは二の丸、御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、 しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、 その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)につながると考えられる。 西の段は周囲が石垣や石塁で囲まれていることもあり、 この部分が郡山城のなかでは最も新しい時期の遺構であったと考えられる。 」
三の丸と二の丸とは約三十五メートルの高低差がある。
「二之丸跡」の石柱の隣に説明板がある。
「 二の丸は本丸の南につながり、約2m低く、北西にある石列で画した通路でつながっている。
東西36m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で、27mと15mの方形に区画しており、
実用面積は約400uと本丸よりひとまわり小さい。
また、この石塁の外側には幅0.5mから1mの平坦面が見られる。
この二の丸の南側には高さ3mの石垣が残るが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、
ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にあった可能性が高い。
南にある三の丸へは幅15mの通路があり、礎石も残ることから、小形の枡形をした門、あるいは塀があったと思われる。 」
「郡山城本丸跡」の説明板がある。
「 郡山城の本丸は郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。 その北側は一段高くなった櫓台がある。 櫓台は長さ23m、幅10mの広さで、現状は破壊が著しい。 この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。 城の遺構は山頂本丸曲輪群を中心に放射状に伸びる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、 あわせて12本の尾根とそれらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、 まとまりを持たせた複雑な構造をなしている。 曲輪も大小合わせて270段以上とみられる。 大永三年(1523) 毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧城を郡山全域に拡大していった。 元就はここを本拠城として幾多の合戦を経て中国統一を成し遂げた。 」
郡山山頂に位置する本丸は一辺が約三十五メートルの曲輪で、上下段に分れ、下段には元就の屋敷が
あった。 北端の一段高くなったところ(上段)には現在、「本丸跡」の石柱が建っているが、
かっては長さ二十三メートル幅十メートルの物見台があったとされる。
後世の絵図面などには天守閣が描かれているが、確証はない。
三の丸の下には「三の丸石垣」の説明板がある。
「 三の丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯曲輪との間に築かれた石垣。 城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されたが、この部分では当初の石積みをわずかに留めている。 帯曲輪から三の丸への通路は高さ4mの石垣を斜めに上がる階段状になっており、 虎口郭的な三の丸西の段への入口とみられる。 」
石が散乱しているが、三の丸へ入る大手道にあたり、僅かに立石も残っている。
なお、三の丸に残る石垣は竪積(たてづみ)の石を交ぜて築き上げた中世期独特のもので、
安芸地方に多く見られるものである。
御蔵屋敷跡の南西にあるのが勢溜の檀である。
説明板
「 勢溜(せだまり)の檀は本丸の峰から南西に長くのびる尾根を御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、
十段の大型曲輪からなる檀で、尾根沿いに比高差約1mで、面積500uから700uの広さの曲輪を四段連ね、
その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
この曲輪群では特に東南方の大手、尾崎丸方向への防御は厳重で、たとえこの方向を破っても、
この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、
さらにこの上の勢溜の檀の曲輪群から攻撃できる構造になっている。
ここには本丸守護の塀が滞在していたことがうかがえる。 」
この壇のすぐ側を通る道が本丸から城下に続く大手筋と考えられており、
本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
山裾の道を歩いていくと、「左御本丸右満願寺」の石柱と「←本丸200m 満願寺→ 勢溜の檀↑」の道標が建っている。
満願寺の壇は満願寺を含む六段から成る曲輪群。 満願寺は勢溜の壇の南東部にあった寺で、
毛利氏の郡山入部前からあったとされ、現在は境内跡に二つの蓮池跡などが残っている。
道を進むと「尾崎丸堀切」の道標がある。
「 尾崎丸は旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、 堀切で区画されている。 尾崎丸は独立的な性質を持つ十七段の曲輪群で、毛利隆元の居館があったと推定されている。 」
その先の三叉路を左に行くと旧城である。
右に道をとり、ひたする下ると展望台に出る。 市街地が見えたが、低いので迫力はなかった。
その先の三叉路を左に取り、山裾を西に廻るように進むと、「常栄寺跡」の説明板がある。
「 常栄寺は毛利隆元の菩提寺である。 永禄元年(1563)、隆元の没後、元就は隆元の導師、山口の国清寺の僧、竺雲恵心を招き、開山とした。 寺は永禄七年(1564)扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広利禅師」の勅額を受けた。 天正十九年(1591)の分限帳には千四百八十石五斗余を領している。 寺跡は二段の曲輪からなり、上の段は60mX25m、下の段は40mX10mでかなりの広さを持つが、 建物の配置は明らかでない。 毛利氏の防長移封後、山口に移った。 現在の常栄寺は雪月庭としても有名である。 」
その先の右手に毛利隆元の墓所がある。
説明板
「 隆元は毛利元就の長男として、大永三年(1523)多治比猿掛城内で生まれた。 吉川元春、小早川隆景の兄にあたる。
天文六年(1537)人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。
以後、天文十五年(1541)十九歳で帰還するまで、大内氏に優遇を受けた。
天文十五年(1546)二十四歳で家督を相続し、三年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、
天文二十二年(1553)に長男幸鶴丸(輝元)の誕生を見た。
永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため、
多治比に一時帰還した。 郡山城には入らず、出発、途中、安芸佐々部で和智誠春の饗応を受けたが、まもなく発病。
翌朝未明に四十一歳で、永禄六年(1563)急逝した。
菩提寺は常栄寺である。 」
この後、出発の薬研堀まで行き、郡山城の探訪は終了した。
所在地:広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山
JR芸備線吉田口駅から備北バスで吉田営業所行きで約20分、市役所前下車、徒歩約5分。
郡山城のスタンプは安芸高田市吉田歴史民俗博物館(0826-42-0070 9時〜17時 祝日を除く月休 )にて
休日の日は玄関前にスタンプ済みの紙が置かれている