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本丸の奥左側に鐘楼があり、説明板がある。
「 鐘楼は築城当時より城下や近隣諸村に時の鐘を告げた遺構で、 鐘と共に緊急時武士を召集する太鼓も備えていた。 当初は柿葺きか桧皮葺きであったが、明治以降荒廃がはげしくたびたびの補修のため原形をとどめない状況であった。 昭和54年銅板葺きとして旧規に復したものである。 城地内に鐘楼が所在するのは全国的に事例がなく貴重な文化財である。 福山市教育委員会 」
天守は元和八年(1622)に建てられた五重五階地下一階の層塔型天守で、 築城時と江戸中期では違いがあったようであるが、五重六階地下一階の層塔型である。
「 本瓦葺きで、天守の南側は天守の二重目の屋根と一体化した二重の付庇が備わり、
その東側には付庇に連続した二重櫓が付随していた。
天守内部は全層で内側の柱(身屋部分)がすべて同じ位置に通されていて、
その周りを外壁面の柱が囲んで一層から五層まで一間ずつ逓減していて、
天守台の面積は九間×八間に対し、最上階は五間×四間の大きさである。
各層の破風は内部構造と無関係な装飾的なもので、その配置は徳川系の天守(江戸城、大坂城、
二条城等)に準じていた。
福山城の天守は、規則的な構造を持ち、層塔型の形式を体現していて、
慶長期の城郭建築技術の完成形といえるものであることから、
明治六年(1873)の廃城令による建物の取り壊しの際も、破却を免れ、
昭和六年(1931)には国宝に指定されたが、昭和二十年(1945)の福山大空襲で焼夷弾により焼失してしまった。 」
現在の天守は残された天守台上に建築された鉄筋コンクリート構造によるものである。
本丸東側にあった二層二階の鏡櫓は、明治六年(1873)の廃城令により破壊されたが、
昭和四十八年(1973)に外観復元したもので、郷土史の資料や文書を収蔵する文書館になっている。
本丸東南隅の月見櫓は、伏見城にあった櫓を移築したもので、望楼の役割を果たしていたが、明治の廃城の際とり壊された。
昭和四十一年(1966)に天守と共に外観復元された。
御湯殿は、御殿と共に伏見城から移築され、明治六年(1873)の廃城令でも壊されず残り、
国宝に指定されたが、昭和二十年(1945)の戦災で焼失した。 昭和四十一年(1966)に内外ともに復元された。
所在地: 広島県福山市丸之内1−8
JR山陽本線・山陽新幹線福山駅から徒歩5分
福山城のスタンプは天守閣(福山城博物館)の受付で