日本100名城 (70) 岡山城






岡山城は旭川畔に天守と櫓群が林立した西国の要塞である。
宇喜多秀家が慶長二年(1597)に、五重六階の望楼天守を築き、 黒い下見板が張られたことから、烏城の別称が付いた。 

「 岡山城は旭川の西方の丘陵を城地とする平山城として築かれた。 この地には元々金光氏の居城があったが、元亀元年(1570)、宇喜多直家が略奪し、 天正元年(1573)に入城、小さな城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し、今日の岡山の基礎を築いた。  その子の秀家は、天正十八年(1590)、秀吉の意見に従い、豊臣政権の有力大名にふさわしい城にすべく、 石山の東「岡山」に本丸を移し、城郭の拡張整備を開始(1597)した。 八年の歳月を費やし完成したのが、 天守閣を備えた城郭と豪壮きわまる石垣と内堀を持つ岡山城本丸である。 」

本丸の北西にあるのが月見櫓と呼ばれる隅櫓である。

「 二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、 本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓である。  櫓の下層は南北九・一メートル、東西七・三メートル、上層は四十五・五メートル四方の建物で、 一部に地階を設け、重層な土蔵造りである。  屋根は入母屋造りの本瓦葺きで、下層の南、南西面には唐破風と上層の西面には千鳥破風を配し、 北面には唐破風を飾るなど、外観に変化をもたせている。  この櫓は武器や食料の貯蔵庫であったが、天守閣と同じ望楼式で、 二階の城内側は廻り縁側を設けて開け放した佇まいで、 日常の生活にも使用できるような構造となっていて、名前のとおり月見にも適していた。  岡山城に残る当時の建物の一つで、国の重要文化財に指定されている。 」

月見櫓の下の石垣の隅部は、表面を平らに整えた方形の割石を配し、 その長辺を交互に振り分けた算木積みになっている。  石材は白色度が高い花崗岩で、瀬戸内海の犬島で切り出されたものと思われる。 」

岡山城の本丸は東側の天守閣の建つ最上段の本段、その西側に一段下がった中の段、 この両段を南側から西側に取り囲む平地の下段の、三段構えとなっている。 
その先にあるのは廊下門で、本丸の北側から中の段に上るための裏(搦手)門である。

「 本段の張出部から中の段にかけて上屋が渡され、その下に門扉を設けた櫓門の型式をとっている。  上屋は本段御殿に住む藩主が中の段の表書院に降りる道筋に当たり、この門の名の起こりとなった。  月見櫓と同じく1620年代に池田忠雄が建てたものであるが、明治になり取り壊された。  現在の建物は昭和四十一年(1966)にコンクリートで再現されたものである。  なお、三十メートルほど背後の中の段内に廊下門の前身となる裏門跡が埋め込まれていることが発掘調査で分った。 」

岡山城
     月見櫓      廊下門
岡山城遠望
月見櫓
廊下門



廊下門の左手に天守閣と石垣が見える。

「 秀家が築いた金箔瓦を使用した天守閣は二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造の 望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を持つ。  特徴の一つ、天守閣は北に大きく突き出た不等辺五角形である。  外壁には黒い下見板が張られ、その色から烏城の別名がある。  天守台の石垣は慶長二年(1597)までに築かれたもので、加工を施さない自然石を用いた野面積みによるもので、 高さは約十五メートルあり、この位置は岡山の丘のもとの崖面に当り、 石垣の背後はその堅い地山に持たせている。 」

この先の空地は本丸表書院跡である。 当時の様子が分かるようになっているが、空地である。

「 表書院は表向御殿と呼ばれた藩主の公邸兼藩庁で、城内最大で最高の格式を有する御殿だった。  数棟からなり、六十を越える部屋があった。  登城した家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥に進み、それぞれ所定の部屋に詰めていた。  廊下に面した徒番所は城内を警備や雑用にあたる家臣の詰所だった。  北に広間、書院が続き、その奥に藩主公邸である中奥と台所が建ち並んでいた。  藩主は住居である本段の御殿から渡り廊下を通って、北西の招雲閣に入り、 南座敷で政務をとった。 泉水を備えた中庭には数寄屋(茶室)が建っていた。  北東部の台所は藩主の食事や儀式用の料理を作っていた。  表向の郭自体が池田忠雄によって完成されたため、表向御殿も同時期の完成と思われる。  御殿はたびたび改修や建て替えを受けながら明治まで存続したが、今は残っていない。 」

大納戸櫓は本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓で、 一階の平面は長辺二十メートル、短辺十メートルで 壁に黒い下見板が張られていて、藩政のための書類や道具類が保管されていた。  明治の城壊しの際に破壊された。 
石塁の上に建てられた長屋を多聞櫓といい、大納戸櫓と伊部櫓の間には長さ三十七メートル、幅四メートルの平屋の 多聞櫓が建っていて、壁には下見板が張られ、格子窓、石落としが設けられていた。 

天守閣
     本丸表書院跡      大納戸櫓跡
天守閣と石垣
本丸表書院跡
大納戸櫓跡




旭川に臨む水の手から本段へ直に登る「勝手筋」の階段は「六十一雁木」と呼ばれていた。

「 このあたりは江戸時代初期、池田氏の時代に整備されたが、六十一はその時の階段数に因むものと思われる。  階段の下に本格的な櫓門があったが、階段の上にも軽量ながら門(要害門)を設け、軍備に万全を期していた。 」

両門とも明治になって取り壊されたが、昭和四十一年(1966)に上門だけが木造で再建された。  現在の六十一雁木上門は絵図に示された当時の構造と細部が異なっているようである。

「 岡山城は豊臣時代の城が増改築をされ、江戸時代にも引き続いて使用されたため、 石垣に構築技法の発達の様相が見られる。  築城時の「野面積(のづらづみ)」から江戸時代初頭「打込ハギ(うちこみはぎ)」、 その後の「切込ハギ(きりこみはぎ)」と各時期の石積みが観察できる。  本段東側の高石垣は、宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線に改修した 跡がある。 秀家は安定性の高い大型の石材をきちんと積んでいるのに対し、 秀秋は丸みの強い石材を乱雑に積んでいる。 」

表書院の南端から本段へ上がる石段の入口に設けた渡櫓門は不明門と呼ばれ、中の段から本段に上る正門である。

「 本段には藩主が日常生活を営む御殿があり、入ることができるのは特に限られた身分の人だった。  天守閣のある本段全体の入口を守った大型の城門であるが、平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、 この門はほとんど閉ざされていたことから、不明門(あかずのもん)と呼ばれた。 」

門内すぐに階段があり、門上に上屋を架けた櫓門の型式で、軍備を高めている。 明治の廃城後取り壊されたが、昭和四十一年(1966)に鉄筋コンクリートで再建された。 

六十一雁木上門
     高石垣      不明門
六十一雁木上門
本段東側の高石垣
不明門



石段の踊り場の上に見える櫓は不明門の渡櫓である。  その下の石垣について「不明門下の石垣」という説明板がある。

「 右隅は宇喜多秀家の石垣に被せて造られていて、 関ヶ原合戦の後の小早川秀秋または池田氏により築かれた。  上部は不明門を建てた時に積み足され、中程の一部は天保九年(1838)に崩れて、修理を受けている。 」

本段の一角には「天守閣の礎石」という説明板がある。

「 天守閣は昭和二十年六月の戦災で焼失し、昭和四十一年に元の位置に鉄筋コンクリート で再建されたため、礎石のみをここに移し、元通りに配置している。 」

再建された天守閣がある。

「 宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての天守閣は大入母屋造りの基部に高楼を重ねた、望楼型と呼ばれる様式で、 外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしていて、 それに金箔瓦が彩を添えていた。 烏城、金烏城という異称はこれに由来する。 」

一見するとひとつの建物のように見えるが、天守閣の西側三分の一は塩蔵と呼ばれる別の櫓である。  このような渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属している形式を複合式天守という。 
下見板も、初期の天守によく用いられた手法である。
天守閣内には書院造りの居間、城主の間が設けられていたのは初期の天守閣の特徴 で、再建された天守閣にも城主の間も復元されている。 

不明門下の石垣
     天守閣の礎石      天守閣
不明門下の石垣
天守閣の礎石
天守閣



中の段に戻ると空地に池があるが、これはは数寄屋(茶室)が建っていた中庭の泉水を再現したものである。 
「穴蔵跡」とある説明板には、 「 香川県豊島の凝灰岩の切石で造られた幅三・八メートル、 奥行二・九メートル、深さ二・三メートルで、もとは屋根があり、非常用の食料が保存されていたと思われる。 」 とあった。 
地面から少し高いところ国の重要文化財に指定されている月見櫓がある。

「 月見櫓は岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当る中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主だった元和年間 から寛永年間前半の建築とされ、一部地下付きの塗込め造り本瓦葺き二階建てで、城外の北西側から眺めると二層の望塔に見えるが、 城内の南東側から眺めると三層の層塔型の景観である。  地階と一階の桁行(東西)三十二尺三寸(約9.8m)、梁間(n南北)二十六尺二寸(約8m)、二階が方形で、桁行、梁間とも 十六尺五寸九分(約5m)、棟高四十五尺(約13.7m)である。  地階は一階床下の貯蔵場所で、一階の床板を引上げ式の戸造りになっていて、有事の際に一階へ通じる作りなっている。  一階は西面に石落とし付きの唐破風造りの出格子窓、北面に石落とし付きの片流れ屋敷の出格子窓を設けて、城外側への 臨戦に備えをなし、南面西寄りに入口を設けている。  二階は西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊り場北窓に唐破風造りの武者窓、 北壁に引き違い窓を設け、一階同様に城外側の備えを厳しくしている。  その一方で二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁をめぐり、内側に腰高明り障子を立てていて、二階の たたずまいは城内側が日常生活仕様になっていて、 平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を備すのに格好な構造になっている。 」

「小納戸櫓跡」の説明板があり、隣に再建された廊下門がある。

「 小納戸櫓は本丸の搦め手にある廊下門に迫る敵を迎え撃つために設けられた櫓である。  白壁造り二階建て、平面は正方形で、一階の壁には格子窓と石落としが設けられていた。  この櫓の西と南にはそれぞれ平屋の多聞櫓が続いていた。 」

穴蔵跡
     月見櫓      小納戸櫓跡
穴蔵跡
月見櫓
小納戸櫓跡



江戸時代に本丸中段の表書院から下段の南部にあった楼門は鉄門(くろがねもん)である。

「 不明門から下りてきたきたところに位置し、木部全体を鉄板で覆ったいかめしい門だった。  明治期に壊されて今はない。 」

鉄門跡の下は下の段で、左折すると内下馬門跡に出る。

「 このあたりは岡山城本丸の正門(大手門)があったところで、城の威厳や大名の権威を示すため、 巨石で石組されている。 最大の石は高さ四・一メートル、幅三・四メートルであるが、厚みはなく、 板石を立てたものである。 関ヶ原合戦後の池田氏により建てられたと推定されている。 」

内下馬門の先は内掘で、江戸時代には橋を渡った先に内下馬櫓があったという。 
内掘の外は二の丸(西の丸)である。 車が走る先に石垣が見える。

「 現在丸の内2とある学校や官庁がある地は、天正十八年(1590)宇喜多秀家の築城に始まり、 寛永年間の池田忠雄の城普請まで四代の城主により完成した城郭の跡である。」

この石垣は二の丸の北西部を固めた二の丸の北側にあたり、この地は武家の曲輪から町民の城下町の三の曲輪の 内掘(現在は埋め立てられてない)を渡って通じる要衝をなしている。 
石垣の西側に重層の北西隅櫓を備え、東側に渡櫓門造りの北門を備えていた。

「 北西隅櫓は池田藩初代藩主となった池田忠継の代行に当たった兄の池田利隆が、 江戸時代初頭に二の丸の西側の防備に設けた隅櫓である。  関ヶ原合戦後に入った小早川秀秋はそれまでの西側の堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、 その外に寺町を配置した。  外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていた。  秀秋の夭折(ようせつ)の後は、幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、 池田家を藩主として明治維新に至った。  二代目藩主池田忠雄の時代に完成を見た岡山城は、全域が三十二棟の城門で守られていたが、 明治維新後の廃城で石山門一棟を残すだけとなった。  城の建物は天守閣、塩蔵、月見櫓、西手櫓、石山門の五棟が残っていたが、 空襲で天守閣、塩蔵、石山門が焼失した。 」

本丸跡に建っている不明門と廊下門は天守閣と同時の再建である。 

鉄門
     内下馬門跡      二の丸跡
鉄門跡
内下馬門跡
二の丸跡



所在地:岡山市丸の内2−3−1  
JR山陽本線・山陽新幹線岡山駅下車、路面電車「東山方面行き」で約5分、城下下車、徒歩約10分  
岡電バス「岡電高屋行き・両備バス「東山経由西大寺行き」で約15分、県庁前下車、徒歩約10分  
岡山城のスタンプは岡山城天守閣1F御みやげ処(300円、9時〜17時30分入館は17時まで)にて  



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かうんたぁ。