日本100名城 (69) 鬼ノ城(きのじょう)
鬼ノ城は吉備高原の南端に位置し、
総社平野を見下ろす標高三百九十七メートルの鬼城山の山頂部に築かれた神籠石系の古代山城である。
「 日本書紀などに記載がないが、発掘調査の結果や他の古代山城との比較などから、
七世紀後半に築かれたとされている。
当時の大和朝廷は難波津周辺に都を持ち、鉄の確保のため韓国南部の百済と新羅と取引を行っていたが、
勢力を益す高句麗の南下を阻止するため、唐、新羅連合軍と白村江で戦ったが、大敗する。
天智天皇は高句麗などへの防衛網として、大宰府の水府、瀬戸内海の海沿いにいくつかの朝鮮式古代山城を築き、
都を難波から近江に移した。
また、大和政権が絶対的政権を確立しつつある時期でもあった。
大和の葛城氏、出雲や吉備を支配する王(豪族)などを
臣下にするあるいは滅亡させるためにも権威をしめす城が必要だったと考える。 」
すり鉢を伏せたような形をした山のの南と東は断崖絶壁と急峻だが、山頂は平坦で、
この山の八合目から九合目にかけて、城壁(石塁・土塁)で取り囲み、
長さは二・八キロメートルに及ぶ規模だった。
展望台からは、眼下に総社平野、岡山平野西部、岡山市街が一望できる。
城壁は主として一段一列に並べた列石の上に土を少しづつ入れて突き固めた版築土塁で、平均巾七メートル、
高さ約六メートルの版築土塁と目立つ部分には高石垣で築かれていて、
谷部には排水のための必要性から六ヶ所の水門が設けられていた。
また、東西南北四か所に城門、食品貯蔵庫と考えられる礎石群やのろし場、
涌井(水汲み場)が発掘調査で確認されている。
このうち、西門周辺では、版築土塁、高石垣、角楼などが復元整備されている。
「 西門の間口は三間(12,3m)、奥行二間(8。2m)高さは十二メートルの門は発掘調査で、
通路床面の石敷や石段敷石が見つかり、それに基づいて復元したものである。
西門は南門と同じ柱配列で、本柱は一辺が六十センチ角で、門道の奥に四本柱の目隠し塀がある。
戦闘の場としての機能を考慮して、三階建ての城門に復元したとあり、
一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は見張りや戦闘の場としての機能を持つ。 」
門の土塁はミルフィーユ状、門の上部の盾は本来は内部に置くものだが、
盾の柄を見せるために外側に見せたという。
西門から東側には城壁に沿って敷石が敷き詰められている。
また、西門周辺と角楼に至る土塁上面の柱穴の並びは、板塀のための柱跡とされている。
西門から左に上っていくと復元された角楼と見張り台があり、
そこから見ると対面の山肌に同じような見張り台があることが確認できた。
鬼ノ城にはJR吉備線服部駅から5.5qあり、公共交通手段はない。
車は2.1km先の砂川公園までは自由に対抗車とすれちがうことができるが、
その先の3.4kmはうっそうとした森の一本道で、一部でしかすれちがえないので、
前から車が来ないかと心配しながらのドライブになる。
鬼ノ城の詳細(訪問記)は
「古城めぐり 岡山県4(鬼ノ城)」をご覧ください。
所在地:岡山県総社市奥坂、黒尾
JR吉備線服部駅から徒歩約5km (総社駅からタクシーで約20分)
鬼ノ城のスタンプは鬼城山ビジターセンター(0866−99−8566)にある
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