日本100名城 (68) 備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)





備中松山城は臥牛山上に築かれた近世屈指の山城である。

「 備中松山城は、秋庭三郎重信が延応二年(1240)に備中国有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任ぜられ、 臥牛山の大松山に砦が築かれたことに始まりとされる。  城のある標高約四百八十メートルの臥牛山は中国山地と瀬戸内海とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあった。  その後城主になった三村氏は天正二年(1574)に始まった備中兵乱の時、大松山から小松山に移り、 大幅に手を加えて、砦二十一丸と呼ばれた出丸を築き、臥牛山一帯が要塞化された。  毛利氏により三村氏が滅された後は、毛利氏の東方進出の拠点として松山城は使用され、 備中の大半を毛利氏の領土となり、南部の一部が共に闘った宇喜多直家に与えられた。  江戸時代になり、小堀正次、正一(遠州)父子の修築を経て、 天和年間(1681〜1684)、水谷勝宗の大改修で近世三大山城とされる最終的な城の形になった。  以後の城主は石川氏、板倉氏とかわり明治維新を迎えている。 」

備中松山城案内図
備中松山城案内図



城の縄張は四つの峰にまたがり、天守は標高四百三十メートルの小松山の本丸に建つ。 

「 天守は二層二階で、建物の高さが約十一メートル程で現存する十二天守の中で最小であるが、 日本一高いところに建っている。 西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。 」

現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入口から入るが、 もともとは八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至る構造である。  また、天守に通じる石段は敵の侵入を遅らせるため、直角に曲げられている。

「 一階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られているが、天守のものとしては唯一残るものである。 
一段高い場所にある装束の間は、城主の御座所とされ、また、城が攻められた時に城主が自害をするための場所ともされる。 
二階には、愛宕権現や成田明神など九柱の神を祀った御社壇(ごしゃだん)と呼ばれる舞良戸で仕切られた部屋がある。
外観は腰板張りで、一重目の南面に唐破風付き出窓や二重目の折れ曲がり出窓など、縦連子窓を多用し、 一重目屋根は、西面に千鳥破風、北面と東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられていて、凝った意匠の外観となっている。 」

天然の巨石を取り入れた大手門付近の石垣は山城ながらの豪快な眺めである。 
平成六年度から重要文化財の天守、二重櫓、三の平櫓東土塀を中心に、本丸の復元整備が行われ、 平成九年に本丸の正面 玄関ともいえる本丸南御門(二つの平櫓の間にある)をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、 五の平櫓、六の平櫓、土塀などが古写真や文献資料に元にもとづいて忠実に復元された。  天守と本丸二重櫓は平成十五年に保存修理が行われた。 

天守など
     備中松山城天守      大手門付近
(左)六の平櫓(中央)五の平櫓(右奥)天守
備中松山城天守
大手門付近



備中松山城の詳細(訪問記)は   「古城めぐり 岡山県2(備中松山城)」をご覧ください。


所在地:岡山県高梁市内山下1   
JR伯備線備中高梁駅から車で約10分、備中松山城ふもとの「城見橋公園」、徒歩約25分で「ひいご峠」、 ひいご峠から松山城までは七百メートル(徒歩約20分)の遊歩道を歩く 
JR伯備線備中高梁駅から途中の城見橋公園まで特定日にバスが運行 
土、日および祝日は「城見橋公園」から「ひいご峠」まで、シャトルバスが運行される(所要時間5分)  
備中高梁駅から期間限定で集合タクシーも運行  
備中松山城のスタンプは城見橋公園の売店にある   



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かうんたぁ。