日本100名城 (67) 津山城(つやまじょう)
津山城は堅固無比の縄張を誇った壮大な平山城である。
津山盆地の中央部の比高五十メートルの鶴山(つやま)に築かれた城は、
総石垣で雛壇のように三段もしくは四段重ねに曲輪を築いた梯郭式平山城で、
日本三大平山城のひとつに数えられる。
「 慶長八年(1603)、美濃源氏の血を引く森忠政が、
関ヶ原の戦いの戦功により十八万六千石を与えられ美作津山藩が立藩し、
同年、現在見られる津山城の築城に着手し、地名を鶴山から津山に改めた。
元和二年(1616)、十三年の歳月をかけた城が完成し、
中四国一の天守、櫓、城門などを合わせ八十余棟が建ち並ぶ近世城郭となった。
明治六年(1873)の廃城令により、天守、櫓などの建物が破却されたが、三段構えの石垣は残っている。 」
「一二三段(ひふみだん)」と呼ばれる構えの平山城で、
山頂に本丸をおき、本丸の五重の層塔型天守を取り囲むように櫓と門を配して防御を固めていた。
城は明治時代に壊されたので、現在残るのは天守台だけであるが、かなりのものだと想像できる。
「 天守は破風を持たない四重五階地下一階の層塔型天守で、
南側に六番門(櫓門)を付属させる複合式平面の天守であるが、
天守へは東側の穴蔵入口から出入りする構造だったという。
また、天守台の高さは約三間、穴蔵の高さは十一尺五寸、天守建物の全高は約二十三メートルで、
初重部分の梁間は十間(六十五尺)、桁行は十一間(七十一尺五寸)であった。 」
周囲には遺構の石垣や建物の礎石が残っている。
本丸の角には平成十七年(2005)に復元された本丸備中櫓と翌年完成した太鼓塀(土塀)がある。
「 備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。
森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、
忠政の娘婿にあたる長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であると考えられている。
備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、備中櫓は東に長局と到来櫓が接続し、
これらの建物が御殿の一部として認識されていたようで、
内部には御座之間や茶室を備え、建具には唐紙を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、
なおかつ繊細で女性的な仕上げだった。
そのため、この櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、
城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。 」
なお、津山城は鶴山公園(かくざんこうえん)として桜の名所となっていて、日本さくら名所100選にも選ばれている。
津山城の詳細(訪問記)は
「古城めぐり 岡山県3(津山城)」をご覧ください。
所在地:岡山県津山市山下
JR津山線津山駅から徒歩約15分
市内循環バスで城下まで行ける
津山城のスタンプは備中櫓受付に置かれている
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