日本100名城 (66) 津和野城(つわのじょう)






津和野城は標高三百六十二メートルの霊亀山上にあり、山麓から比高は約二百メートルの典型的な山城 である。 

「 築城は、鎌倉幕府から派遣された能登の豪族吉見頼行、頼直父子が、 永仁三年(1295)から正中元年(1324)にかけて行ったと伝えられる。 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎直盛は、城山山頂を削平して、三重天守を建て、 壮大な高石垣を有する近世山城へ大改修した。  坂崎氏断絶後、天和三年(1617)に入城した亀井政矩が今に残る美しい城下町に整備し、亀井氏十一代の 居城として明治維新まで続いた。 」 

観光リフトを降りた正面の小山は出丸、別名は織戸丸。  石垣、塀、櫓が築かれ、出丸門の右側に番所があった。 
出丸から尾根沿いに約二百四十四メートル離れたところに本丸東門があるが、 坂崎氏以後、亀井氏の代には大手門となっていたところである。 
ここを入って右手に見える石垣は三重櫓跡で、東門を見下ろす三段の石垣は三段櫓が設けられ、厳重に守られていた。  その先の右側にあったのが三の丸の西の張出し部で、 ここには馬立と台所があり、台所の奥(西側)には海老櫓があり、搦手を見張っていた。 

東門跡
     馬立跡      台所跡、海老櫓跡
東門跡
三の丸の西張出し部、馬立跡
台所跡、海老櫓跡



三の丸の西側(馬立)を挟んで反対にあるのは西門で、西門櫓が築かれていた。 
三の丸の南部には曲輪内に番所などがあったとされ、先端には南門櫓が築かれ、 南門からは尾根を南に下がって中荒城と続いていた。 
ここから見える人質曲輪の高石垣の光景は圧巻で、高石垣は整然とした算木積で築かれている。 

西櫓門跡
     南櫓門跡      人質曲輪の高石垣
西櫓門跡
南櫓門跡
人質曲輪の高石垣



馬立の反対に左へ廻っていくところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。 
その上にあるのは太鼓丸で、右側の門の石垣の先には本丸最高所の三十間台である。 
三十間台の城内最高所からは津和野の城下町を一望できる。 

太鼓丸跡
     三十間台      津和野の町を一望
太鼓丸跡
三十間台
津和野の町を一望



三重の天守は貞亨三年(1686)の雷火で焼失したが、三十間台の西側には二の丸の天守台が残っている。 
江戸時代の亀井氏の津和野藩の藩邸は山麓に置かれ、現在は県立津和野高校の敷地(グランド)と嘉楽園になっているが、 廃城時に取り壊しを免れた櫓二基、物見櫓が嘉楽園に、馬場先櫓が津和野高校に現存している。 

二の丸の天守台
     物見櫓      馬場先櫓
二の丸の天守台
物見櫓
馬場先櫓




所在地:島根県鹿足郡津和野町後田   
JR山口線津和野駅から徒歩20分で、リフト登り口、リフト降りると徒歩約15分で、本丸に到る 
津和野城のスタンプは津和野観光リフト(0856-72-0376 9時〜16時30分)の茶屋にて 



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かうんたぁ。