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湿った挟間のようなところから山道が続くので上っていく。
少し行くと開けたところに出た。
千畳平(せんじょうなり)というところで、北端には小さな社の尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る。
ここは御子守口の正面に位置し、太鼓壇に続く北側の郭で、城兵集合の場として使われたといわれる。
説明板 「尼子神社」
「 月山富田城跡は昭和九年六月史蹟名勝地の指定を受け、地元広瀬町商工会がこの地を買収し、
太鼓壇公園を造り、尼子神社を創建し、尼子三代(経久、晴久、義久)
並びに尼子十勇士(山中鹿介幸盛他)の霊を祀った。 」
千畳平の先にあるのが千畳平に続く南側の郭、太鼓壇(たいこだん)で、
時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝えられる。
太鼓壇の跡地には山中幸盛の祈月像が建っている。
説明板 「山中鹿介」
「 山中鹿介幸盛は尼子氏の一門である山中氏の出身で、病弱な兄に代わって家督を継承しました。
毛利氏による富田城攻めの際に益田氏配下の武将である品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、
尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての尼子再興戦で中心的な働きを行ない、一時は富田城を包囲した。
しかし、布部、山佐の戦いにおいて毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢になり、元亀二年(1571)頃に出雲国から撤退した。
その後は因幡方面で転戦した後、織田信長の配下である羽柴秀吉の軍勢に加わり、
播磨国の上月城守備を命じられていたが、毛利軍の猛攻により落城。 主君勝久らは自害し、鹿介も捕えられた。
鹿介は備中松山城にいる毛利輝元下に護送されたが、
その途上松山城に程近い阿井の渡しにおいて暗殺された。 」
山中鹿介の三日月の前立(まえだち)と鹿の脇立(わきだち)のついた冑(かぶと)は山中家の家宝だったようで、
それを譲り受けたことから、鹿介と名を改めたといわれる。
太鼓壇の北側に桜が植えられているところがあり、広瀬の自然と桜を守る会が建てた看板には
「 尼子時代馬乗馬場だったところである。 」 とあった。
その先、道は下に降りて行くが、真直ぐ進むと戦没者慰霊碑が建っている。
ここは奥書院平(おくしょいんなり)で、奥書院があったと伝えられるところである。
平らなところを更に進むと、その先は両側が狭まったところにでたが、建物が二棟建っていた。
ここは花ノ壇、別名は宗松寺平(そうじょうじなり)である。
大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する場所で、
かつては多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。
建っている建物は発掘調査をもとに復元された主屋と侍所である。
説明板には 「 花ノ壇は敵を監視できることや山中御殿(殿様の居住地)と連絡が容易なことから、
指導力のある武将が暮らしていたと思われる。
南側の主屋は武将が暮らしていた家で、北側の家は戦いのと時に兵士達が待機する場所として利用していたと考える。 」
とあった。
山中御殿からは七曲りと呼ばれる急峻な一本道で、左から右に郭が連なり、山頂部の本丸まで続いていた。
敵は三つの道方向からしか攻められず、城の下段が落ちても、
中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には空掘を築き、守りを固め、
一度も落城しなかったという難攻不落の名城である。
道を進むと右手に展望が開き、月山の全貌が見えてきた。
その先の左側には石垣が数か所残っているが、右手は工事中の看板があり、立ち入り禁止になっていた。
このあたりは山中御殿平(さんちゅうごてんなり)である。
説明板「山中御殿」
「 富田城御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれている。
月山の中腹に位置する山中御殿は菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点ともなっており、
最後の砦になる三の丸、二の丸、本丸に通じる要の曲輪として造られた。
周囲は高さ5m程の石垣や門、櫓、堀などで厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいた。 」
左手の石垣には多聞櫓跡の表示があり、正面左の石垣前には櫓跡と菅谷口門跡の表示板があった。
「 山中御殿は上下二段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。 発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。 現存する古絵図では石垣や瓦葺きの櫓などが描かれているが、これらの古絵図が描かれたのは江戸時代である。 発掘されている石垣が作られたのは関ヶ原の戦い後の堀尾氏による改築と推定されるという。 」
菅谷口門跡の先は侵入禁止になっているが、覗きこむと「登城道」の標柱が建っている。
又、菅谷口門跡の右側石垣の前には「本丸軍用道コース610m」の表示があった。
大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口には高さ5m、幅15mの大手門があり、
押し寄せる敵を押し返したと伝わるが崩落して現存しない。
この大石垣の下には径2m、深さ3mの軍用大井戸があり、現在でも水が湧いているようであるが、
工事で確認はできなかった。
山頂は平地になっていて、本丸、その下に二の丸、三の丸と連なっている筈だが、
ここから先の七曲道に通じる場所は全て工事中で
通行できなくなっていたので、今回の城探訪はここで終了となった。
所在地:島根県安来市広瀬町富田2188
JR山陰本線安来駅からイエローバス「広瀬バスターミナル行き」で約30分、
市立病院前下車、徒歩約10分
月山富田城のスタンプは安来市立歴史資料館(9時30分〜17時火休)にて