日本100名城 (64) 松江城(まつえじょう)





松江城は宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれた輪郭連郭複合式平山城である。 

「 松江城は宍道湖の北側湖畔の亀田山の山頂に建てられた、 東西三百六十米、南北五百六十米の城である。  標高二十八米余の地点に本丸を築き、周囲を荒神櫓を始め六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多門をめぐらせている。 
城を囲む内掘は巾二十米〜三十米の堀川で、宍道湖とつながり、外堀は城の南に流れる京橋川を利用していた。 」

松江城を築城したのは堀尾吉晴で、駐車場から城山公園に向うところに銅像が建っている。 

「 堀尾吉晴は信長、秀吉、家康に仕え、 豊臣政権下では三中老の一人として功績を残した人物で、城普請の名人でもあった。  その子の忠氏が慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で戦功をあげたことから、出雲、隠岐両国二十四万石を拝領し、松江藩が誕生。  入城した月山富田城は周囲を高い山に取り囲まれた山城で、近代戦には不向き、 侍や商人を住まわせるには広大な敷地を必要することから、港がある松江に城を築くことに決めた。 
しかし、慶長九年(1604)、忠氏が早世したため、孫の忠晴が跡を就いたが、幼年だったため、 吉晴が後見役となり藩を運営することになり、 慶長十二年(1607)、堀尾吉晴により、松江城と城下町の建築を開始した。 
城は、亀田山の末次城跡に築かれることになり、 宍道湖の北側湖畔の亀田山の山頂に建てられた。 
亀田山は北の奥谷方面から続く丘陵の南端にあたり、 松江北高校のある赤山との間に宇賀山と呼ばれる丘陵があった。  本丸北側の内堀開削はこの宇賀山を開削するという大工事となり、 大量に出た土砂は城下の整備に利用された。 
地盤が軟弱でもあり、城を完成するのに日時を要し、 あしかけ五年をかけて慶長十六年(1611)冬にやっと完成した。 
堀尾吉晴は完成を見ず、六月に急死、寛永十年(1633)には孫の堀尾忠晴も亡くなる。  嗣子がなかったため、堀尾氏は三代で改易となった。 
寛永十一年(1634)、若狭国小浜藩から京極忠高が出雲・隠岐両国二十六万石で入封し、 三の丸を造営し、これで松江城の全容が完成した。
京極忠高が統治したのは三年余りという短い期間だったが、 度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修をしたことから、 現在でも京極若狭守忠高の名にちなんだ「若狭土手」という名を残している。
京極家の跡を継ぎ、寛永十五年(1638)に信濃国松本藩から十八万六千石で入封したのは松平直政である。 
七代目、松平治郷(はるさと)は産業や治水林産などに力を尽くされ、藩の中興の祖として誉れ高い。  また、号を不昧(ふまい)と称し、茶道不昧流の始祖となり、松江の文化を高めた。 松江藩はその後も松平氏が統治し、十代目の定安(さだやす)の時、明治維新を迎えた。 」 

城を囲む内掘は巾二十米〜三十米の堀川で、 宍道湖とつながっていて、薄い塩水(汽水域)である。 
松江城大手門駐車場脇から屋形船が出ているが、内掘の堀川を巡るものである。 
大手門駐車場から県庁のあたりが三の丸で、藩主の御殿などがあったという。 
駐車場から城山公園に入ったところは松江城の馬溜と呼ばれる一辺四十六米程の正方形の平地で、 入口は桝形になっていて、大手木戸門があった。

「 馬溜は正面(西側)は高さ十三米の高い石垣と櫓。南と東側は石垣の堀、 さらに内側の高さ一米の腰石垣による土塁で、四方から守っていた。 
奥の石垣の上の左右の櫓は中櫓と太鼓櫓で八十七米の塀で結ばれている。  これは二の丸の南側の櫓で、明治維新後、破却されたが、平成十三年(2001)に復元されたものである。 」

屋形船
     堀尾吉晴公像      馬溜
堀川めぐりの屋形船
堀尾吉晴公像
馬溜、背後に太鼓櫓が見える


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馬溜の右側、石垣が残っているところは大手門があったところで、 高さは三・八米、巾は十五米の二階建の楼門で、屋根にはしゃちほこが載った壮大な門だったという。 
その先には「二の丸下の段」の説明板があり、平地が広がっている。

「 東西百米、南北二百十米の広大な平地に江戸時代には米蔵がたくさんあった。  北には屋敷地、南は幕末には御破損方、寺社修理方があった。  調査により確認できた二棟の礎石の上に同じ大きさの上屋を建て、内部を茶屋と売店に利用している。 」

二の丸に上っていくと、右側に石垣があるが、 城に上ってくる敵兵を鉄砲で攻撃するための火点(鉄砲櫓)があった場所である。 
石段はここで切れ、右側にまた、石段が続く構造で、一気に上れなくしている。 

大手門跡
     二の丸下の段      鉄砲櫓跡
大手門跡
二の丸下の段
右側は火点(鉄砲櫓跡)



二の丸に上がるには枡形の道を進むと、右手に天守が見える。 
右手に行くと少し下り坂になり、天守閣の下に行くが十米の石垣になっているので、天守閣へは上れない。 
そのまま行くと天守から遠ざかり、水手門の下に出る。 
天守に行くには左に向うが、ここには石垣についての説明板がある。 

「 松江城の石垣は打込はぎといって、 石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたき、つき合わせやすくした積み方がほとんどで、 慶長年間に築かれた城に多くみられる。  また、自然石とその割石を積んだ野面積みや石を全面加工した切込はぎも一部に見られる。  石に刻まれた分銅形は堀尾家の紋。 二の丸下の段の西側には△印やその他の刻石を見付けることができるが、 刻石は工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など、土木工事を円滑かつ組織的に行われるために活用された。 」 

先に進むと「三の門跡」に出た。 そこには二の丸の説明板があった。 

「 二の丸は本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり、松平家二代藩主綱隆の時までは 藩主の居宅となっていた。 御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、 その他、御広間、御式台、御作事小屋、番所、井戸があった。  また、石垣に沿って二之門、三之門、御定番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓があった。  現在は西半部に明治三十六年に建てられた興雲閣と明治三十二年に東照宮を移築した松江神社がある。 」 

枡形
     三の門跡      二の丸跡
枡形と石垣の説明
三の門跡
二の丸跡



「二ノ門跡」の標木を過ぎると、左側に鳥居があり、その先に松江神社、その奥に興雲閣が見える。 

「 松江神社は明治十年(1877)、旧松江藩の有志により、西川津村楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建された 神社が堀尾忠晴が朝酌村に創建した東照宮の御神霊を合祀し、松江城山二之丸に遷座して、松江神社と名を変えた神社で、 昭和六年(193)、松江藩中興の明君として仰がれた七代藩主松平治郷と松江開府の祖堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、 今日に至っている。 」 

三の門と二の門間は短く、二十米しかない。  石段を上がると左側に巨石がはめ込まれた石垣と正面は南多聞による枡形になり、 右折すると正面に頑丈な一の門があり、右側も多聞と敵兵はここで三方から攻撃を受けるということになる。 
この本丸一ノ門と南多聞の一部は昭和三十五年(1960)に復元されたものである。 
一の門をくぐると入場券の売り場で、ここから先が本丸である。

「 本丸は標高二十八米余にあり、北東部の一部土塀を除けば、 周囲は祈祷櫓(荒神櫓)、武具櫓、弓櫓、坤(ひつじさる)櫓、鉄砲櫓、乾の角櫓という六つの櫓とそれを結ぶ 細長い多聞がめぐらされていたという。  本丸の北東隅に天守が築かれたが、本丸御殿はなかったようで、落城に備えた守りを中心としたものだったのだろう。 」

松江神社と興雲閣
     一の門手前      本丸
松江神社と興雲閣
南多聞と一の門
本丸



天守閣は五層六階、下見板張り、白漆喰、千鳥破風付きで、千鳥城ともいわれた。
付櫓が天守閣の入口になっているが、鉄の扉で、 敵が侵入すると上部の狭間から入口に向って鉄砲や矢が撃ちこまれるようになっていた。

「 天守閣の南側に地下一階を持つ平屋の入母屋造附櫓があり、これが防御の役割を果たしていた。 
附櫓に入ると下足所、階段で上に行くと入場受付で、ここで日本100名城のスタンプが押せる。 
その奥のスペースは武者溜まりで、石落としや矢狭間や鉄砲狭間で防御する仕組みになっていた。 」

松江城天守閣は形式上は望楼型天守に分類され、二重櫓の上に二重(三階建て)の望楼型櫓を乗せた型になっている。

「 二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、二重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけている。  三階には華頂窓、外壁は初重と二重目は黒塗の下見板張り、三重目と四重目と附櫓は上部を漆喰塗、 その下を黒塗下見板張りとし、 壁の大部分は白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実戦本位で安定感のあるもので、 南北の出窓部分の壁だけ漆喰塗である。  屋根はすべて本瓦葺き、木彫り青銅張りの鯱は高さ二米余あり、日本に現存する木造のものでは最大で、 入口から向かって左が雄の鯱は鱗があらく、右が雌である。  石垣は牛蒡積みといわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。  窓は突上窓と火灯窓があり、二階に一階屋根を貫くかたちで開口した石落しが八箇所あり、狭間は六十もある。 」

付櫓の先は天守閣である。
一般的な天守閣は上から下まで一本の通し柱で支えられているが、 松江城は現代の家のように二つの階にまたがる通し柱で造られていた。

「 建物の中央部には地階と一階、二階と三階、四階と五階をつなぐ通し柱があり、 側柱など外側部分には一階と二階、三階と四階をつなぐ通し柱がある。 」

これらの構造を示す説明板があった。 

「 松江城は築城より百年以上経過した江戸時代中期の元文三年(1738)から寛保三年(1743)にかけて大改修が行われた。 この大改修の際に天守閣も改装されて、現在の松江城天守閣の姿になったと推測されている。 」

地下には当時からの大きな井戸があり、城郭建築では唯一の現存例という。 
井戸の左右の柱に天守祈祷札のレプリカが貼られていて、説明文がある。

「 松江城の天守が国宝に指定される根拠になったのが、 松江神社で発見された天守祈祷札で、天守祈祷札の赤外線写真から、 祈祷札の日付けが江戸時代初期「慶長拾六年正月吉祥日」と分り、 天守の中から祈祷札の貼られた柱を調べ、ついにその釘穴と柱の釘跡が一致したことにより、 平成二十七年(2015)七月、天守として5番目の国宝に指定されることができた。 」 

一階から最上階まで上っていく。
望楼からは松江市内を眺望することができる。 

「 一階より上の階は板の間で、それほど広くはなかった。 
昔は武者溜まりや武者走りになっていたのだろうが、現在は鎧などの展示品が置かれている。 
通し柱を覆うように板で覆われてかすがいで繋いでいる包柱は松江城以外に例はないという。 
最上階に上る階段の上の天床は桐材で、可動式の木戸があり、 敵兵が上ってきた時、閉めて侵入が阻止てきる構造になっている。 
かっては最上階の部屋の中央に二畳ほどの畳が敷かれていた。 
最上階には廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。 」

下に降りて、天守閣の周囲を歩くと乾櫓の跡地を見付けた。 
少しはりだしたところに「祈祷櫓跡」の説明板があった。 

「 築城前にはこの櫓の建っていたところに塚があり、 また、榎木を神木とする荒神が祀ってあったところであり、築城時にはしばしば石垣が崩壊する怪異が生じた。  櫓の名称はそれを祀りなおし以来毎月この櫓で松江城の安全祈祷を続けたことに由来する。  この櫓は東之出し矢倉とも記されているが、幕末頃には伝説に基づいてコノシロ櫓とも呼ばれた。  二階建てで、一階は三間と6県の十八坪、二階は十坪であり、南側に武具櫓への長屋造りの多聞で続き、 北側へは瓦塀が続いていた。 」 

付櫓付天守閣
     祈祷札の貼られた柱      乾櫓の跡
付櫓付天守閣
祈祷札の貼られた柱
乾櫓の跡




所在地:島根県松江市殿町1−5 
JR山陰本線松江駅下車徒歩約20分  
松江市営一畑バス「県庁行き」で10分、大手前下車徒歩約5分  
松江城のスタンプは天守閣入城入口にある  



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かうんたぁ。