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岡口門は建造された浅野時代には大手門だったが、紀州徳川家の寛政八年(1796)に
搦手門(裏門)に変更になった。
元和七年(1621)に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門(岡口門)は国の重要文化財である。
門櫓は切妻屋根になっているが、以前は両側に続櫓があったのである。
岡中御門跡の手前右手に本丸に登城する表坂がある。
この坂は急なため、身障者は事前予約すると介助を行う旨の案内があった。
逆くの字に上っていくと高台に出る。 この角の空地は松の丸角櫓の跡。
初代藩主、頼宣はここから紀州富士(龍門山)を眺め、故郷の駿河国を偲んだといわれている。
ここから南側は急速に落ち込む程の高低差があり、その下に南の丸が建てられていた。
松の丸と南の丸との間の城壁は高石垣といわれる急勾配の石垣である。 南の丸は今は動物園になっている。
和歌山城の石垣は時代によって異なる積み方になっている。
二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の石垣。
時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた「打ち込みハギ」へと変わり、
さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込みハギ」の石垣がある。
また、石垣には、転用石や豊臣秀長と浅野時代の石垣には刻印された石垣石があり、
模様は約百七十種類、二千百個以上の石に確認されているといい、その大半が和泉砂石である。
松の丸の右側の石垣は野面積みである。
松の丸跡には七福の庭がある。 かっては本丸御殿の中庭にあったものだが、
大正十二年(1923)に給水所が造られることになり、ここに移設された。
七個の巨石を七福神を見立てて配置した庭である。
道が急になると前面に高い石垣の上に天守閣が見えてくる。
石畳の道を上ると正面に本丸御殿の石段と石垣が見えてくる。
石段下にある「本丸御殿跡」の案内板には、
「 和歌山城のある虎伏山はラクダの背のように東西に峰がある。
天正十三年(1585)羽柴秀吉の命で秀吉の弟秀長が築城したのはこの山頂部分だった。
慶長五年(1600)和歌山城主になった浅野幸長は城の大改修を行い、東の低い峰を二の丸にし、御殿を建てた。
この部分は東西二十九間(約57m)南北二十七間(約53m)で不等辺五角形をしている。
元和五年(1619)徳川頼宣が入国すると本丸となり、本丸御殿と呼ばれた。
しかし、地形的に不便で手狭なため、時に謁見の場として利用するだけで、ほとんど空屋敷だった。
幕末に短期間だったが、参勤交代が中止になり、
江戸藩邸にいた正室たちの帰国が許されると本丸御殿として使用された。
明治の廃藩により、本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築された。
又、本丸御殿の中庭には七福の庭があったが、大正に給水所が建築される際、その石組は松の丸に移転した。 」
とあった。
本丸御殿に住んだのは初代、徳川頼宣と正室の瑤林院(加藤清正の娘)、
四代目藩主、徳川茂承と正室、倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)のみで、
倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称されたという。
元和七年(1621)に造られた本丸庭園には宝船を模した七福の庭があったが、
給水場設置に伴い、大正12年(1923)に松の丸へ移築されたことは前述の通りである。
左に上る敷石の道に天守一之門があったことを示す石垣が残っている。
その道をを行くと右手に見えてきたのは天守で、「和歌山城」の木柱が建っていた。
その先で他の道と合流し、上って行くと西条八十の「まりと殿さま」の歌碑前に出た。
ここからの和歌山市内の展望は素晴らしい。
振り返ると入城料を支払う小屋があり、その先にあるのは和歌山城の天守曲輪である。
100名城のスタンプはこの小屋で押せる(入城しなくても可である)
天守曲輪は菱形にちかい平面をしていて、基壇の面積は二千六百四十平米ある。
ここから見た場合、右側にあるのが大天守で、左側にある天守二の門(楠門)から天守の中に入る。
和歌山城の天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、
更に天守群と二棟の櫓群(二之門櫓、乾櫓)が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるもので、
姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。
弘化三年(1846)年七月、天守曲輪に落雷があり、本丸御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼。
武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、
嘉永三年(1850)に大小天守等が再建された。
再建された大天守は三重三階で、天守台平面が菱形であるため、
初重に比翼入母屋破風を用いて二重目以上の平面を整えている。
南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落としが付けられた。
幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまった。
再建された天守は国宝に指定されたが、和歌山大空襲で焼失しまった。
現在の天守は昭和三十三年(1958)に嘉永三年(1850)の再建時の図面などを元に
鉄筋コンクリート構造により、外観復元したものである。 大天守の両側に石落としがあるのが見えた。
前回来た時は車で来たので、江戸時代には不明門があったところにある駐車場から
新裏坂を利用して、すぐに二の門の左に出てきた。
不明門はあかずの門とも言われ、急を要する場合のみ開かれ、通常は閉じられたままであったという。
天守が再建された時に復元された二の門(楠門)は唯一、木造で再建されたものである。
楠門をくぐり、中に入ると左手に二の門櫓が見える。
その先には大天守と小天守はつながっているようにあった。
小天守から天守の内部に入るが、内部は撮影禁止である。
小天守の入口は唐破風で、内部を含め白漆喰塗りである。
柱間に横通しされた長押に細工が施されている。
大天守に上ると見晴らしがよく、和歌山市はもちろん生駒山などが展望できた。
下をみると左に二の門(楠門)と二の門櫓、右には北西にあたるいぬいを示す乾櫓が見ることが出来た。
大天守の中にはゆかりの展示物があり、和歌山城のジオラマもあった。
これによると本丸御殿は今のような石段でなく、坂道でつながっていたこと、
本丸御殿へ入る途中に門があったことなどが分かった。
天守を出ると、二の門櫓、乾櫓、小天守の外を一周するた。
天守曲輪の石垣に石段を上って中に入る入口のようなものがあったが、これはどこに通じているのだろうか?
と思った。
本丸御殿脇の道を下る道は本丸と二の丸を結ぶ裏坂である。
下っていくと左側に井戸があり、銀明水の案内板がある。
「 この井戸は銀明水といわれ、天守台地北方丘腹の金明水と共に日常用水ならびに籠城時の非常用水だった。
城内にはこの外四十余ヶ所あった。 」 と記されていた。
坂を降りきると左側に城の管理事務所があり、左側の石垣には階段があり、ここには枡形の多聞櫓の門があり、
非常時には上って行って敵の攻撃に備えることができた。 今は石垣だけが残っていた。
石垣の間をくぐると開けたところに出た。 ここが二の丸があったところである。
降りたところは二の丸御殿の跡である。
二の丸は江戸城にならい、表、奥、大奥となっていて、
大手門から入ってくると最初にあるのが表で、奥、そして大奥となる。
表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、
大奥は藩主の正室や側室たちの居所として機能していた。
前述したように本丸御殿は狭く不便だったので、初代頼宣と十四代茂承以外の藩主は二の丸御殿に住んでいたという。
現在、二の丸御殿の表、中奥に相当する所は二の丸広場になって開放されている。
大奥跡は大奥庭園と表示があり、芝生が養生され整備されていた。
大奥の先は堀で隔てられ、その先に西の丸がある。
西の丸は藩主の隠居所として江戸時代の初期につくられたもので、西の丸御殿と西之丸庭園からなり、
大奥と西の丸御殿は御橋廊下で行けるようになっていた。
明暦元年(1655)十一月、西の丸と隣接する家臣屋敷より出火し、西の丸と二の丸が延焼した。
文化十年(1813)には西の丸大奥より出火して西の丸御殿が全焼している。
以上のような火災に遭ったが、その度再建されている。
しかし、明治四年(1871)の廃城令により多くの建造物が解体もしくは移築された。
二の丸御殿は明治十八年(1885)に大坂城へ移築され、昭和六年(1931)から大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、
戦後米軍施設として使用中の昭和二十二年(1947)に失火により焼失してしまった。
昭和十年(1935)には残された天守などの十一棟が国宝に指定されたが、
昭和二十年(1945)七月九日の和歌山大空襲により天守など、指定建造物十一棟がすべてを焼失した。
御橋廊下は藩主が生活している二の丸と庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋である。
壁付きなのは藩主が移動するのを気づかれないためという。
現在の橋は平成十八年(2006)に江戸時代の図面をもとに復元されたもので、靴をぬいて渡ると斜めになっているので、
歩きづらかった。
橋を渡った先にある常夜燈がある芝生が西の丸御殿跡で、一部は観光バスの駐車場になっている。
道は大奥から切手門を通り、山吹渓、鶴の渓と進み、砂の丸に続いている。
山吹渓の右手に西の丸御殿、その先に紅葉渓庭園(もみじだにていえん)と呼ばれた西之丸庭園があった。
西の丸庭園前の山吹谷は、徳川時代までは水堀であったが、
庭園は城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられている。
江戸時代初期に造られた庭園は戦災で天守などとともに焼失してしまった。
現在の鳶魚閣は図面などを基に昭和四十七年(1972)に再建されたもの。
茶室紅松庵は松下幸之助から寄贈されたものである。
西の丸庭園は江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として国の名勝に指定されている。
庭園の中を散策し、趣のある門を出て、鶴の渓を進む。
鶴の渓は二の丸から砂の丸へ通じる道で、虎伏山と吹上砂丘の間に位置し、
くぼんだ地形になっている。
浅野氏がここで鶴を飼っていたことからその名が付いた。
この場所の石垣は結晶片岩を自然石のまま積んだ野面積みである。
小高いところに向って石段を上ると、右側に鶴の門跡の木標が建っていた。
このあたりは浅野時代に造られた鶴の渓庭園跡のようである。
正面は広い空地になっているが、江戸時代には砂の丸だったところである。
左折して行くと護国神社や赤い門の追廻門に出る。
追廻門は旧型の高麗門で、砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ門で、
馬を追い回したことが名の由来である。
前回利用した駐車場その先にあるが、護国神社や追廻門には行かず、
右折すると枡形のような石垣があり、その先に護国神社の大きな一の鳥居が建っていた。
江戸時代には吹上御門があったところだが、明治に埋め立てられ、今は西外掘として一部だけが残っている。
大通りに出ると道の反対は市役所や県庁などの公的機関や学校、商業施設、オフィス街など、
和歌山県の中枢を担う施設が立地している。
このあたりは江戸時代の三の丸跡で、
紀州藩の重臣である水野家や安藤家、三浦家などの上流藩士の邸宅が建ち並んでいたところである。
市役所の前には「三の丸跡」の石柱があった。
所在地:和歌山県和歌山市一番丁3
JR紀勢本線和歌山駅・南海本線和歌山市駅から和歌山バスで約10分、公園前下車、徒歩すぐ
和歌山城のスタンプは入城料徴収小屋にて (入城しなくても可である)